万事休息、2014年12月14日
今年最後の「安泰寺たより」になります:
2015年1月出発予定の『迷いは悟りの第一歩』の「あとがき」より:
「今の私が考えている〝恋と愛の仏教″の表現――。
それは安泰寺の修行生活が、単なる浮世離れした「仙人ごっこ」ではなく、共生の小モデルとなることです。また同時に、それが日本と世界の交流に少しでも寄与すればと願っています。
いまさらいう必要もないと思いますが、私は日本のことが好きです。それは日本の豊かな自然が好きだとか、その四季が好きだというくらいのことではありません。ましてやお寿司とお酒が好きだ、という意味ではないし、漫画やアニメが好きだからに日本に来たわけではありません。私が日本に来た理由は、禅が好きだからです。それから日本人の心もとても好きです。
私は今まであれこれ日本や日本人にたいして批判めいたことを書いているのも事実です。それは決して日本が嫌いだから書いているのではありません。嫌いであれば、もうとっく特にドイツに帰っていると思います。
日本仏教についても、同じことがいえます。日本の仏教が好きだからこそ、日本で仏教徒になったのです。今年で四六歳になりました。人生の半分、二十三年間を日本で過ごしています。坐禅と最初に出会ったのは十六歳の時ですから、その付き合いはもう三〇年ということになります。仏教と私はいわば、熟年夫婦のようなものです。
一方のキリスト教は、私にとって産みの母でもあり、初恋の相手のようなものでもあります。一度捨てたはずのキリスト教が再び恋しくなったのは、そのためかもしれません。キリスト教は恋と愛の宗教であり、そこには、「神の国を自分たちの手で作ろう」という〝夢″も感じるのです。
だからというわけではありませんが、最近の私が叫びたくなるときがあるのです。
「仏教よ、君にはまだ愛が足りないよ」」
それは私の内なる「クリスティアン」の声でしょう。そこには、「無方」なる私も黙ってはいられない。
「愛が足りないのは、あなたこそでしょう」
この本はある意味、ネルケ・イエンス・オラフ・クリスティアンとネルケ無方の格闘のようなものです。最初は他人事だと思っても、私の内なる夫婦喧嘩にしばらくのあいだ付き合って頂ければ幸いです。読者にとっても、自らの宗教観を考えるきっかけとなれば、これほど嬉しいことはありません。
この本を読んで、私の修行の実体験に興味を持ち始めた方がいれば、二〇一一年に発行されたデビュー作『迷える者の禅修行』をお勧めいたします。その中で書ききれなかった《論》は本書の内容です。信じてもらえないかもしれませんが、二時間で読めそうなこの一冊に、私は『迷える者…』の出版からずっと手をかけていたのです。難産を救ってくださったのが、デビュー作も可能にした新潮新書の体育系編集者、金寿煥の愛と力の入ったご鞭撻です。最後になりましたが、お念仏とともにひれ伏して御礼申し上げます。」
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