Monthly Archives: May 2019

坐禅&ビッパサナ:「坐禅は目を開いたビッパサナ瞑想にすぎないのか?」、2019年5月30日

6月の2日・9日・23日、大阪城公園の「隠し曲輪」で野外坐禅 6:40-7:40(雨天中止)。場所を Google Map で見る。

私は坐禅の風景を、いつも草原の比喩で説明しています。坐禅をして、まずは羊の多いことに気づいて、驚く。そしていつの間にか、羊飼いのまねごとをするけど、うまくいかない。うまくいかないから、草原の中心に根付いている大きな欅の下で一服し、羊たちのことを忘れて大きなその幹を見上げる(呼吸の観察、シャマター)。あるいは、草原の向こうに見える山脈の一つの峰に注目する(鼻の先に気を置く、丹田や親指に気を置く)。あるいは、その遠い山脈全体を見渡す(身体全体を意識する)。それができるようになると、その手前に広がっている草原んも見渡せるようになる。そうなれば、自分はもはや羊飼いのまねをする必要がないことに気づく。草原の中の羊飼いではなく、空の視点から、すべてを見渡す。しかも、一つ一つの微細な部分をぼけさせない。このステージを「目を開いたビッパサナ」と言ってもいいかもしれませんね。ところが、そのあとは空から再び草原におりて、草原になりきる。羊たちに踏まえようが、草を食われようが、うんこをされようが「ミンナニデクノボートヨバレホメラレモセズクニモサレズ・・・」ではありませんが、今ここにあるこの現実になりきるのみ、この最後の大事なステップはビッパサナの中では用意されていないのではないかと思います。つまり、空で終わってしまうのがビッパサナ、草原に戻るのが大乗の禅。

流転会とその他のイベントの告知、2019年5月26日

6月の2日・9日・23日、大阪城公園の「隠し曲輪」で野外坐禅 6:40-7:40(雨天中止)。場所を Google Map で見る。

正法眼蔵行持の講義、2019年5月24日

潙山のそのかみの行持、しづかにおもひやるべきなり。おもひやるといふは、わがいま潙山にすめらんがごとくおもふべし。深夜のあめの聲、こけをうがつのみならんや、巖石を穿却するちからもあるべし。冬天のゆきの夜は、禽獸もまれなるべし、いはんや人煙のわれをしるあらんや。命をかろくし法をおもくする行持にあらずは、しかあるべからざる活計なり。薙草すみやかならず、土木いとなまず。ただ行持修練し、辨道功夫あるのみなり。あはれむべし、正法傳持の嫡祖、いくばくか山中の嶮岨にわづらふ。潙山をつたへきくには、池あり、水あり、こほりかさなり、きりかさなるらん。人物の堪忍すべき幽棲にあらざれども、佛道と玄奥と、化、成ずることあらたなり。かくのごとく行持しきたれりし道得を見聞す、身をやすくしてきくべきにあらざれども、行持の勤勞すべき報謝をしらざれば、たやすくきくといふとも、こころあらん晩學、いかでかそのかみの山を、目前のいまのごとくおもひやりてあはれまざらん。
この潙山の行持の道力化功によりて、風輪うごかず、世界やぶれず。天衆の宮殿おだいかなり、人間の國土も保持せるなり。潙山の遠孫にあらざれども、潙山は祖宗なるべし。のちに仰山きたり侍奉す。仰山、もとは百丈先師のところにして、問十答百のしゅう子なりといへども、潙山に參侍して、さらに看牛三年の功夫となる。近來は斷絶し、見聞することなき行持なり。三年の看牛、よく道得を人にもとめざらしむ。

芙蓉山の楷祖、もはら行持見成の本源なり。國主より定照禪師號ならびに紫袍をたまふに、祖、うけず、修表具辭す。國主とがめあれども、師、つひに不受なり。米湯の法味つたはれり。芙蓉山に庵せしに、道俗の川湊するもの、僅數百人なり。日食粥一杯なるゆゑに、おほく引去す。師、ちかふて赴齋せず。あるとき衆にしめすにいはく。

Calmly imagine the ceaseless practice that was happening on Mount Isan long ago. What I mean by ‘imagine’ means thinking about how it would be for us today if we were residing on Mount Isan. The sound of the rain deep in the night was probably not just of water washing over the moss, for the rain would certainly have had the strength to bore through boulders. On the snowy nights in the dead of winter, the birds and beasts must have been scarce indeed, and how much less would there have been smoke from man-made fires to acknowledge human existence! It was a way of living that could not have been tolerated, were it not for the Master’s ceaseless practice in which he made light of his life whilst stressing the Dharma. He was in no hurry to cut down the undergrowth, nor did he engage in cutting down trees to clear the land for building. He just continued his ceaseless practice and simply did his utmost to practice the Way. What a pity that an
authentic Ancestor who had Transmitted, and kept to, the True Dharma came to undergo such hardships in such precipitous mountains! It is said that Mount Isan had many ponds and running water, so there must have been thick ice and dense banks of fog. Most people could not have tolerated such a secluded life,
nevertheless Isan transformed it into the Buddha’s Way and explored Its innermost purpose. Today, we are able to learn of his expressions of the Way and Its purpose because of the ceaseless practice that he did. Even though we may not be listening with a casual attitude, we still need […]

辨道話講義⑭ & 本堂回り、2019年5月22&23日

Ⓠ7 とうていはく、「この坐禅の行は、いまだ仏法を証会(しょうえ)せざらんものは、坐禅辨道してその証をとるべし。すでに仏正法をあきらめえん人は、坐禅なにのまつところかあらん。」

Ⓐ7 しめしていはく、「痴人のまへにゆめをとかず、山子(さんす)の手には舟棹(しゅうとう)をあたへがたしといへども、さらに訓をたるべし。
それ修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆゑに、初心の辨道すなはち本証の全体なり。かるがゆゑに、修行の用心をさづくるにも、修のほかに証をまつおもひなかれとをしふ。直指の本証なるがゆゑなるべし。すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし。ここをもて、釈迦如来、迦葉尊者、ともに証上の修に受用せられ、達磨大師、大鑑高祖、おなじく証上の修に引転せらる。仏法住持のあと、みなかくのごとし。すでに証をはなれぬ修あり、われらさいはひに一分の妙修を単伝せる、初心の辨道すなはち一分の本証を無為の地にうるなり。
しるべし、修をはなれぬ証を染汚せざらしめんがために、仏祖しきりに修行のゆるくすべからざるとをしふ。妙修を放下すれば本証 手の中にみてり、本証を出身すれば妙修通身におこなはる。
又まのあたり大宋国にしてみしかば、諸方の禅院みな坐禅堂をかまへて、五百六百、および一二千僧を安じて、日夜に坐禅をすすめき。その席主とせる伝仏心印の宗匠に、仏法の大意をとぶらひしかば、修証の両段にあらぬむねをきこえき。このゆゑに、門下の参学のみにあらず、求法の高流(こうる)、仏法のなかに真実をねがはん人、初心後心をえらばず、凡人聖人を論ぜず、仏祖のをしへにより、宗匠の道をおふて、坐禅辨道すべしとすすむ。
きかずや祖師のいはく、「修証はすなはちなきにあらず、染汚することはえじ。」又いはく、「道をみるもの、道を修す」と。しるべし、得道のなかに修行すべしといふことを。」

はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る  (石川啄木)

古人云く、霧の中を行けば覚えざるに衣しめる、と。 よき人に近づけば覚えざるによき人になるなり。

識るべし、行を迷中に立て覚前に証を獲る。
参禅の人、且(しば)らく半途(迷)にして始めて得たり、全途(迷)にして辞すること莫れ。

自己をはこびて万法を修証するを迷いとす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。
迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。
人の悟りをうる、水につきのやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。

証(会) 悟 覚 道(菩提) 見性(成仏)

尋牛(じんぎゅう) 見跡(けんせき) 見牛(けんぎゅう)
得牛(とくぎゅう) 牧牛(ぼくぎゅう) 騎牛帰家(きぎゅうきか)
忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん)(七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず?)
人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう) 返本還源(へんぽんかんげん) 入鄽垂手(にってんすいしゅ)

我れ、今、独り自ら往(ゆ)く、処々に渠(かれ)に逢うことを得たり 渠、今、正に是れ我れ 我れ、今、是れ渠にあらず。
汝これ渠にあらず、渠まさにこれ汝。

赤肉団上に一無位の真人あり、常に汝ら諸人の面門より出入す。(臨済録)

然(しか)あれば、誠心(じょうしん)を専らにして前仏に懺悔すべし…其(その)大旨(だいし)は、願わくは我れ設(たと)い過去の悪業(あくごう)多く重なりて障道の因縁ありとも、仏道に因りて得道(とくどう)せりし諸仏諸祖我を愍(あわれ)みて業累を解脱せしめ、学道障(さわ)り無からしめ、其(その)功徳法門普(あまね)く無尽法界(むじんほっかい)に充満弥綸(みりん)せらん、哀みを我に分布すべし、仏祖の往昔(おうしゃく)は吾等(われら)なり、吾等(われら)が当来は仏祖ならん。

生来の自分から、本当の自己を見れば、これは誓願として現れる。ところがこんどは反対に、本来の自己から、生来の自分を見ると、生来の自分というのは、本当はこうあるべきなんだと言いながら、実はそれが実現していない。業という手カセ、足カセにはめられているから、本来の自己そのものをなかなか実現できないでいる。その限りそこに懺悔という面が必ずある、なければならない。この誓願と懺悔というのは本来の自己と生来の自己とのカネ合いのところに当然でてこなければならない。(内山興正「安泰寺へ残す言葉」)

流転会の場所を変更しました、2019年5月19日

6月の2日・9日・23日、大阪城公園の「隠し曲輪」で野外坐禅 6:40-7:40(雨天中止)。場所を Google Map で見る。

5月のリトリートの報告、今後の予定について、2019年5月7日

本堂回り & 田植え、2019年5月2日&5日