「弁道話講義⑧」& 本堂回り、2018年11月20・21日
資料:
もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる。ゆゑに、諸仏如来をしては本地の法楽をまし、覚道の荘厳をあらたにす。および十方法界、三途六道の群類、みなともに一時に身心明浄にして、大解脱地を証し、本来面目現ずるとき、諸法みな正覚を証会(しょうえ)し、万物ともに仏身を使用して、すみやかに証会の辺際を一超して、覚樹王に端坐して、一時に無等等の大法輪を転じ、究竟(くきょう)無為の深般若を開演す。
これらの等正覚、さらにかへりて したしくあひ冥資(みょうし)するみちかよふがゆえに、この坐禅人、確爾(かくじ)として身心脱落し、従来雑穢(ぞうえ)の知見思量を截断(せつだん)して、天真の仏法に証会し、あまねく微塵際(みじんさい)そこばくの諸仏如来の道場ごとに仏事を助発(じょほつ)し、ひろく仏向上の機にかうぶらしめて、よく仏向上の法を激揚す。このとき、十方法界の土地、草木、牆壁(しょうへき)、瓦礫(がりゃく)、みな仏事をなすをもて、そのおこすところの風水の利益にあづかるともがら、みな甚妙(じんみょう)不可思議の仏化に冥資せられて、ちかきさとりをあらはす。
この水火を受用するたぐひ、みな本証の仏化を周旋(しゅうせん)するゆえに、これらのたぐひと共住(ぐじゅう)して同語するもの、またことごとくあいたがひに無窮の仏徳そなはり、展転広作(てんでんこうさ)して、無尽、無間断(むけんだん)、不可思議、不可称量の仏法を、遍法界の内外に流通するものなり。しかあれども、このもろもろの当人の知覚に昏(こん)ぜざらしむることは、静中(じょうちゅう)の無造作にして直証なるをもてなり。もし、凡流(ぼんる)の おもひのごとく、修証を両段にあらせば、おのおのあひ覚知すべきなり。もし覚知にまじはるは証則にあらず、証則には迷情およばざるがゆえに。又、心境ともに静中の証入、悟出あれども、自受用の境界なるをもて、一塵をうごかさず、一相をやぶらず、広大の仏事、甚深微妙の仏化をなす。
この化道(けどう)のおよぶところの草木、土地ともに大光明をはなち、深妙法をとくこと、きはまるときなし。草木牆壁(そうもくしょうへき)はよく凡聖含霊(ぼんしょうがんれい)のために宣揚(せんよう)し、凡聖含霊はかへって草木牆壁のために演暢(えんちょう)す。
自覚、覚他の境界、もとより証相をそなへてかけたることなく、証則おこなはれておこたるときなからしむ。ここをもて、わづかに一人一時の坐禅なりといへども、諸法とあひ冥(みょう)し、諸時とまどかに通ずるがゆゑに、無尽法界のなかに、去来現(こらいげん)に、常恒(じょうごう)の仏化道事をなすなり。
彼彼(ひひ)ともに一等の同修なり、同証なり。ただ坐上の修のみにあらず、空をうちてひびきをなすこと、撞(とう)の前後に妙声綿綿(みょうしょうめんめんん)たるものなり。このきはのみにかぎらむや、百頭(はくとう)みな本面目に本修行をそなへて、はかりはかるべきにあらず。しるべし、たとひ十方無量恒河沙数(むりょうごうがしゃすう)の諸仏、ともにちからをはげまして、仏智慧をもて、一人坐禅の功徳をはかり、しりきはめんとすといふとも、あへてほとりをうることあらじ。
三位一体論 父(創造主)・聖霊 ・子(救済主であるイエス)
仏身論(三身説) 法身(仏性)・報身(仏性の働き)・応身(色身・現実の身体)
わが宗では「坐禅」が本尊。「非思量」が法身。「修せざるにはあらわれず証せざるにはうることなし」が報身。「行も亦禅、坐も亦禅、語黙動静体安然(証道歌)」が応身。(沢木興道)
応に仏法僧に帰依したてまつるべし。三宝に三種の功徳あり。いわゆる一体三宝・現前三宝・住持三宝なり。阿耨多羅三藐三菩提を称して仏宝となす。清浄離塵なるは乃ちこれ法宝なり。和合の功徳は僧宝なり。これ一体三宝なり。現前に菩提を証するを仏宝と名く。仏の証する所はこれ法宝なり。仏法を学するはこれ僧宝なり。これを現前の三宝と名く。天上を化し、人間を化し、あるいは虚空に現じ、あるいは塵中に現ずるは、仏宝なり。あるいは海蔵に転じ、あるいは貝葉に転じ、物を化し、生を化するは法宝なり。一切の苦を度し、三界の宅を脱するは、乃ち僧宝なり。これ住持の三宝なり。『教授戒文』
過去現在未来の全宇宙、その宇宙の法則(真実そのもの、理)、事事無碍の世界(一体三宝)
歴史上の釈尊と本堂の仏像など、釈尊の教えと現在の経典、お袈裟を纏うっている僧侶集団(現前三宝)
「坐禅が坐禅をしている」坐禅そのもの、「坐禅が坐禅をしている」ことへの気づき、この坐禅を中心とした社会生活(住持三宝)