Monthly Archives: March 2018

大人の修行について、2018年3月30日

一箇半箇(いっこはんこ)の接得
大人の修行: antaiji.org/archives/jap/muho-otona.shtml

本堂回り(畳干し・雪囲い取り外し)、2018年3月28日

学道用心集 講義@智源寺、2018年3月26日

第九 道(どう)に向って修行すべき事
右、学道の丈夫(じょうぶ)は、先(ま)づ須(すべか)らく道(どう)に向うの正(しょう)と不正(ふしょう)とを知るべきなり。
夫(そ)れ、釋雄調御(しゃくゆうちょうご)、菩提樹下(ぼだいじゅげ)に坐して、明星(みょうじょう)を見ることを得て、忽然(こつねん)として頓(とん)に無上乗(むじょうじょう)の道(どう)を悟る。其の悟る所の道は、声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)等の能(よ)く及ぶ所に非ず。
佛(ほとけ)能く自(みず)から悟りて、佛、佛に傳へて、今に断絶(だんぜつ)せず。其の悟を得る者は、豈(あ)に佛に非(あら)ざらんや。
所謂(いわゆる)道に向うとは、佛道の涯際(がいさい)を了ずるなり。佛道の様子(ようす)を明(あきら)むるなり。
佛道は人人(にんにん)の脚踉下(きゃくこんか)なり。道に礙(さ)えられて当處(とうじょ)に明了(めいりょう)し、悟(ご)に礙(さ)えられて当人(とうにん)円成(えんじょう)す。是(こ)れに因りて縦(たと)え十分(ぶん)の會(え)を挙(こ)すと雖も、猶(な)お一半(ぱん)の悟に落(おつ)るか。是れ則ち道に向うの風流なり。
而今(にこん)、学道の人は、未だ道の通塞(つうそく)を辨ぜず、強(し)いて見驗(けんげん)の有らんことを好む。
錯(あやま)らざるは阿誰(たれ)ぞ。
父を捨(す)て逃逝(とうぜい)し、宝を捨(す)てて令并(れいへい)す。長者(ちょうじゃ)の一子たりと雖も、久しく客作(かくさ)の賤人(せんにん)と作(な)る。良(まこと)に以(ゆえ)あり。
夫(そ)れ、學道の者は、道(どう)に礙(さ)えらるることを求む。
道に礙えらるるとは、悟跡(ごしゃく)を忘(ぼう)ずるなり。
佛道を修行する者は、先づ須(すべか)らく佛道を信ずべし。
佛道を信ずる者は、須(すべか)らく自己本(もと)道中に在りて、迷惑せず、妄想せず、顛倒(てんどう)せず、増減(ぞうげん)なく、誤謬(ごびゅう)なしということを信ずべし。是(かく)の如くの信を生じ、是の如くの道を明め、依(よ)って之を行ず、乃ち學道の本基(ほんき)なり。
其の風規(ふうき)たる、意根(いこん)を坐断(ざだん)して、知解(ちげ)の路(みち)に向(むか)わざらしむるなり。
是れ乃ち初心(しょしん)を誘引(ゆういん)するの方便(ほうべん)なり。
其の後(のち)、身心を脱落(だつらく)し、迷悟を放下(ほうげ)す、第二の様子なり。
大凡(おおよ)そ自己佛道に在りと信ずるの人、最も得難きなり。
若し正(まさ)しく道に在りと信ぜば、自然(じねん)に大道の通塞(つうそく)を了じ、迷悟の職由(しょくゆう)を知らん。
人試みに意根(いこん)を坐断せよ、十が八九は、忽然(こつねん)として見道することを得ん。

第十 直下承当の事
右、身心を決択(けつちゃく)するに、自(おのず)から両般(りょうはん)あり、参師聞法(さんしもんぽう)と、功夫坐禅(くふうざぜん)となり。
聞法は心識を遊化(ゆげ)し、坐禅は行證を左右にす。
是を以て佛道に入るに、尚ほ一を捨てて承当すべからず。
夫、人は皆な身心あり、作は必ず強弱あり。勇猛と昧劣となり。也(ま)たは動、也たは容、此の身心を以て、直に佛を證す、是れ承当なり。所謂従来の身心を回転せず、但だ他の證に随い去るを、直下(じきげ)と名ずくるなり、承当と名ずくるなり。唯だ他に随い去る、所以(ゆえ)に旧見に非ざるなり。
唯だ承当し去る、所以に新巣に非ざるなり。

『正法眼蔵・生死』
ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくときちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。
仏となるにいとやすきみちあり。
もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のためにあはれみふかくして、かみをうやまひ、しもをあはれみ、よろづをいとうこころなく、ねがふこころなくて、心におもうことなく、うれうることなき、これを仏となづく。またほかにたづぬることなかれ。

本堂回り、2018年3月21日

初梅&本の紹介:南直哉著『超越と実存』、2018年3月15日・16日

現代日本において、仏教が様々な方々によって、どう解釈されているか? 既成仏教とは全く違った、斬新な仏教理解に興味を持つ方には、曽我逸郎さんのサイトをお勧めします:
私たちはみんな無我
月を差す指はどれか?
曽我逸郎さんは批判仏教の影響で、自らの考え方を一新させ、その回心・改新・開進の過程を綴っている方です。それぞれのサイトの「意見交換」コーナーでは、私とのやり取りも載っています。『超越と実存』などよりははるかに面白いし、勉強になります。

本堂回り、2018年3月8日