「正法眼蔵・行持」の話、2018年2月27日
梁の普通よりのち、なほ西天にゆくものあり、それなにのためぞ。至愚のはなはだしきなり。悪業のひくによりて、他国に足令跰するなり。歩歩に謗法の邪路におもむく、歩歩に親父の家郷を逃逝す、なんだち西天にいたりてなんの所得かある。ただ山水に辛苦するのみなり。西天の東来する宗旨を学せずは、佛法の東漸をあきらめざるによりて、いたづらに西天に迷路するなり。佛法をもとむる名称ありといへども、佛法をもとむる道念なきによりて、西天にしても正師にあはず、いたづらに論師経師にのみあへり。そのゆゑは、正師は西天にも現在せれども、正法をもとむる正心なきによりて、正法なんだちが手にいらざるなり。西天にいたりて正師をみたるといふたれか、その人いまだきこえざるなり。もし正師にあはば、いくそばくの名称をも自称せん。なきによりて自称いまだあらず。
また真丹国にも、祖師西来よりのち、経論に倚解して、正法をとぶらはざる僧侶おほし。これ経論を披閲すといへども経論の旨趣にくらし。この黒業は今日の業力のみにあらず、宿生の悪業力なり。今生つひに如来の真訣をきかず、如来の正法をみず、如来の面授にてらされず、如来の佛心を使用せず、諸佛の家風をきかざる、かなしむべき一生ならん。隋唐宋の諸代、かくのごときのたぐひおほし、ただ宿殖般若の種子ある人は、不期に入門せるも、あるは算沙の業を解脱して、祖師の遠孫となれりしは、ともに利根の機なり、上上の機なり、正人の正種なり。愚蒙のやから、ひさしく経論の草庵に止宿するのみなり。しかあるに、かくのごとくの嶮難あるさかひを辞せずといはず、初祖西来する玄風、いまなほあふぐところに、われらが臭皮袋を、をしんでつひになににかせん。
香厳禅師いはく、計千方只為身、不知身是筭中塵。
莫言白髪無言語、此是黄泉伝語人。
(百計千方只身の為なり、知らず、身は是れ筭の中の塵なること。言ふこと莫れ白髪に言語無しと、此れは是れ黄泉伝語の人なり。)
しかあればすなはち、をしむにたとひ百計千方をもてすといふとも、つひにはこれ筭中一堆の塵と化するものなり。いはんやいたづらに小国の王民につかはれて、東西に馳走いるあひだ、千辛万苦いくばくの身心をかくるしむる。義によりては身命をかろくす、殉死の礼わすれざるがごし。恩につかはるる前途、ただ暗頭の雲霧なり。小臣につかはれ、民間に身命をすつるもの、むかしよりおほし。をしむべき人身なり、道器となりぬべきゆゑに。いま正法にあふ、百千恆沙の身命をすてても正法を参学すべし。いたづらなる小人と、広大深遠の佛法と、いづれのためにか身命をすつべき。賢不肖ともに進退にわづらふべからざるものなり。