Monthly Archives: March 2015

塩水選、2015年3月31日

毎年この時期、稲の種籾を選出します。もち米とうるち米では塩水の比重は異なりますが、だいたい卵を浮くほど水に塩を混ぜておきます。
安泰寺では古代米(緑米)・コシヒカリ・ひとめぼれ・ヤマホウシという四つの品種を作っていますが、それぞれ分けてポリバケツの塩水に入れておきます。
そこまで沈む重いモミはよい種、表面に浮くものは捨て置きます。
明日からは種籾を池の水につけて、4月の半ばは芽出しをしてから苗箱に蒔いておきます。
塩水選について:
ja.wikipedia.org/wiki/塩水選

「ありのままでもいい、ありのままでなくてもいい」、2015年3月25日

28日~29日はナレッジ・キャピタル・フェスティバル
28日は「World OMOSIROI Award 1st」の授賞式
29日は「こたつ会議」に参加します。

2日~4日の安泰寺リトリートの詳細:
sportsunity.com/corporation/information/Truenature1.pdf

ヨガ雑誌「ヨギーニ」のHP:
yogini.jp

新著「ありのままでもいい、ありのままでなくてもいい」の立ち読み:
kkbooks.jp/book/201503/magazine20150319-2/#/0

アマゾンへのリンク:
  

托鉢から帰山、2015年3月23日

安泰寺では例年、冬安居が終わる15日から春の彼岸まで京阪神方面に托鉢に出かけております。
今年も一週間、新今宮の安宿に泊まって、9人で天王寺・難波・黒門市場・鶴橋・京橋・天神橋・梅田・神戸三宮・元町や京都などで托鉢をしてきました。浄財を下さったおおくの方々に感謝です。
以下の動画は去年のものです。

法戦式・禅問答

法戦式について:
http://www.sotozen-net.or.jp/ceremony/special/hossenshiki

問者  「作者は坐禅をしたら悟れますか?乞尊意」
首座  「坐禅をしても何にもならない。」
問者  「ではなぜ坐禅をするのですか?」
首座  「何のためでもなく坐禅をするのです。」
問者  「中々。何も求めないのが坐禅ということですか?」
首座  「効果を求めて、何かのために坐禅をしては結局、煩悩に操られた人間のまま、世情のお金や、地位や、幸せを追い求めている生活と何の変わりもない。
坐禅は、いつも何かを追い求めて「今、ここ」に不在の私を、本来の私、本来の人間という家に帰ることです。
いつも追い求めている何かを、握りしめている手を放ち、人間そのものに成るということ、それが坐禅です。」
問者 「珍重」
首座 「万歳」

問者  「作者は、仏道とはどのように参究すべきでしょうか?乞尊意」
首座  「かつての祖師方は、”仏道は自己なり”と、申されております」
問者  「それはいったいどのような意味でしょうか?」
首座  「宇宙といえ、世界といえ、全ては六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)に現成する法の働きであると知ることです」
問者  「中々、ならば”私が在る”という根強い想いは、一体 どうすればよいのでしょうか?」
首座  「”私が在る”という想いを抱けることが、そのまま自己の空性を実証してくれています。」
問者  「”自己の空性”とはどのようなことでしょうか」
首座  「朱色に染まるものは、元々朱色ではないが故に、朱色に染まることができています」
問者 「珍重」
首座 「万歳」

問者  「作者は、どのように安心を求めるべきでしょうか?乞尊意」
首座  「”求める”ところに安心はありません」
問者  「中々。では”修証一等(修行と悟りは同じ)”とはどのようなことでしょうか?」
首座  「仏道の中まっただ中に在って、仏道を成就することです」
問者  「何を以て”成就”とするのでしょうか?」
首座  「いま以外に”真実”を求めないことです。いま以外に”他所”を探さないこ  
とです。」
問者  「もう一つ吹っ切れないものが残ります」
首座  「”吹っ切れない”という法のまま、脱落底(悟りの世界)に落ち着いていると知ることです。」
問者 「珍重」
首座 「万歳」

問者  「作者は、百尺の竿頭にさらに一歩進むべし そのこころは乞尊意」
首座  「30メートルの竿のさきに登って、なを手足をはなち、すなはち身心を放下するが如くするということです。」
問者  「そんなことをしたら真っ逆さまに落ちて死んでしまわないですか?」
首座  「如何にも! 死んでしまうかもしれない。が死ぬ恐怖さえも放ち忘れて、竿の先から一歩を踏み出す。それが真実に沿った生き方である。」
問者  「それはとても難しいことです。どうしたらよいのですか?乞尊意」
首座  「道元禅師は仰っています。まづ吾我、名利を離るるべきなり。是れを離れずんば行道は頭燃を払い精進は翹足をしるとも、只無理の勤苦のみ、と。」
問者  「尊意 尊意」
首座  「竿の先つまり、私というものにしがみついて、普段、私たちはどんな小さなことでも、知らない間に私に得になるように働いていることに気付き、私利私欲を離れて、正直に熱心にことにあたる姿勢が即ち、百尺の竿頭さらに一歩進むことです。」
問者 「珍重」
首座 「万歳」

問者  「作者は、安泰寺修行では細かく何も教えてもらえません。どのように修行すればよいのか、乞尊意。」
首座  「お前が安泰寺を創る!!」
問者  「しかし、私は農家のようなことをするために安泰寺に来たのではないのですが。」
首座  「お前なんかどうでもいい!!」
問者  「乞尊意。修行の秘訣は如何なることですか?」
首座  「まず、コップの水を空にして、安泰寺を発見することです。」
問者 「珍重」
首座 「万歳」

問者  「作者は、仏は不殺生を説く、如何なるか不殺生の意味。乞尊意」
首座  「新羅万象、生きとし生けるもの皆生命あり、万物の生命を断ずることなかれ。」
問者  「我等日々三度の食事をなす。換菜を食するは殺生戒を犯すに非ずや?」
首座  「毎日、多くの生命を頂いて、私たちは生命を繋いでいる。動物だけではなく、植物や食卓に上るまでもさまざまな人々の手を経て、食事となっている。釈尊の時代だってお布施となった粥を食べている。残念ながら、他の命を犠牲にしなければ命を繋ぐことができないのが人間である。」
問者  「中々。ではなぜ不殺生戒があるのか?」
首座  「時間を空費するは時間の殺生、金銭を浪費するは金銭の殺生、親にそむくは親を殺すなり、子どものわがままを許すは子どもを殺すなり、仏の戒法を破るは仏を殺すなり。あらゆるものへの慈悲心を教えている。新羅万象、悉く生命あり。学人、殺生戒を犯すことなかれ。」
問者 「珍重」
首座 「万歳」

問者  「作者は仏法とは何ですか?乞尊意。」
首座  「借問す、仏法でないものは何ですか?」
問者  「そんなものはあるんですか?」
首座  「威儀即仏法。行住坐臥即ち、日常の立ち居振る舞い全て仏法ではないものはないのです。」
問者  「中々。具体的にはどのようなことでしょうか?」
首座  「例えば朝起きたら布団を畳んでしまうこと、履物を揃えること、最後に部屋を出るなら電気を消すこと、使ったものは元の位置に戻すこと、自分が使ったカップは洗って戻すこと。目の前に起こっている状況に対して、誠実に対応すること。」
問者  「仏法とは何の関係もないように思うのですが。」
首座  「仏の法は真理の姿、真理の姿というは今、目の前に起こっていること、そのことがただ唯一の真実です。真理を表していることにほかならないのです。仏法をどこか遠くに求めるのではなく、常に自分の足元にあるのです。」
問者 「珍重」
首座 「万歳」
問者 「珍重」
首座 「万歳」

雪おこし、心おこし、2015年3月11日

菩提(ぼだい)心とは、多名一心なり。竜樹(りゅうじゅ)祖師のいわく、唯、世間の生滅無常を観ずるの心も、また菩提心と名づくと。
(学道用心集)

 菩薩(ぼさつ)として修行するためには、まず必要なのが道心(梵語bodhi-cittaの漢訳、音訳は「菩提心」)です。そして私たちが生きている現代社会においても責任ある立場で自分を、そして社会全体を向上させようと思っている人がいれば、ぜひとも仏教の道心を参考にしていただければ、とも思っています。今回から、数回にわたって道心のありようを参究したいと思います。
 それでは、道心とは何か?
 道元禅師は五十三歳でなくなっているので、決して長生きしたわけではありませんが、その短い生涯の中で膨大な作品の量を残しています。その中でも「道心」は重要なキーワードの一つです。まず上の引用をみてみたいと思います。三十四歳の若さで書いた「学道用心集」の冒頭で「多名一心」としていながら、まずインド哲学の大物でもある竜樹(Nagarjuna)を引用します。レッテルはたくさんあるけれども、中身が一つだというのです。無常を観ずるのが道心だというのです。この定義に対して起こるであろう反論を道元禅師はかなり意識していたようです。
 「無常を感じる? それじゃまるで今はやりの《祇園精舎の鐘の声……》ではないか。仏教の肝心要の心がそんな平易な言葉でかたれられるはずがない!」道元禅師の生きていた仏教界には、そういう声も聞こえてきそうであったかもしれません。

有(ある)が云(わ)く、菩提心とは、無上正等覚心なり、名聞利養に拘(かか)わる可からず、有が云(い)く、一念三千の觀解なり、有が云く、一念不生の法門なり、有が云く、入仏界の心なりと。是(かく)の如(ごと)くの輩(ともがら)は、未(いま)だ菩提心を知らず、猥(みだ)りに菩提心を謗(ぼう)す。仏道の中に於いて遠くして遠し。
 (ある人は道心を「無上正等覚心(むじょうしょうとうかくしん)」といい、名利の心に関(かか)わりがないという。別の人は「一念三千の觀解」といい、また「一念不生の法門」ともいう。あるいは、「入仏界の心だ」という。連中は道心を知りもしない癖に、道心を冒涜する。修行者の中で仏道から最も遠く離れている連中である。)

 道元禅師はその作品中に時おり、人に強烈な批判を浴びせます。それはおそらく、自分自身にも当時の仏教界の批判の矛先が向けられていたからではないかと察します。それはともかく、これらの仏教学者らしい道心の定義を道元禅師は一切否定してしまいます。
 
所謂(いわゆる)菩提心とは、前来云ふ所の無常を觀ずるの心、便(すなわ)ち是れ其の一なり、全く狂者の指(ゆび)さす所に非(あら)ず。
(道心とはやはり、まず先の《無常を観ずる心》であって、あの狂者たちが表現しようとするものとは関係がない。)

 それにしても、「狂者」とまでいうのは少しひどすぎますね。道元禅師はこのとき、顔を真っ赤にしていたのではないでしょうか。どうしてそんなに怒ったのでしょうか。なにしろ、「無上正等覚心」などという定義が間違っていたとはいいにくいのです。仏教大辞典を引けば、道心の語源として出てくるのが、まさにこの「無上正等覚心」ですから。「無上正等覚心」とは般若心経の「阿耨多羅三藐三菩提(あぬったらさんみゃくさんぼだい)」の心であって、菩提心や道心はその略に過ぎません。つまり、道心=無上正等覚心は優等生の正解です。
 道元禅師の狙いは仏教学的・文献的な定義ではないということはいうまでもありません。禅師のいう道心が私たちの生活の中で表現されていなければならないため、若い禅師はあえて仏教学者の定義ではなく、「無常」という日本人なら誰でも身近で親しみやすい表現を選んでいたのだと思います。
 四季の移り変わりの中にも無常を感じるのが日本人です。一方、道元禅師のいう「無常を観じる」ことはそれほど生やさしいことではないのです。まず「感」ではなく、「観」ですね。無常を見抜くことです。何の無常かというと、今、ここ、この私の命です。私の物でもなければ、あなたの物でもない、つかみ所のないこの一瞬の命です。
 これを見抜けば、もはや執着のしようがありません。つかみ所のないものに執着しようとするのは、「狂者」のみです。無常を観じたかどうかの基準は、「名利(みょうり)の念」が起こるかどうかです。本当に無常を見抜いた人なら、当然ながら自分のプライドを捨てているはずです。

時光の太(はなは)だ速やかなることを恐怖(くふ)す、所以(ゆえ)に行道は頭燃(ずねん)を救う。
(時の移り変わりの速さを恐れて、頭が燃えているごとく修行に励む。)

 プライドを捨てて、もえるような気持ちで生きる・・・・・・。それができるのは、「今、私がするしかない」と自覚している人です。明日からではダメです。明日はない、私しかない、やることは今しかできない。

(ネルケ無方著 「生きるヒント33」より)

冬安居あとわずか、2015年3月10日

新著『ありのままでもいい、ありのままでなくてもいい』・動画:摩訶迦葉の頭陀行と、欧米と日本の葬式について(英語)、2015年3月6日

新しい著書が21日に出版されます:

前書きより:
『仏教がすすめている生き方とはどういうものなのか?
 その問に答えるためには、まず「生きることは苦しい」という思いの原因を突き詰めなければなりません。一言で言えば、執着があるから生きることが苦しくなるのです。誰しも「あれが欲しい、これが欲しい」とあれこれを追い求めて生きています。しかしそれが手に入るとは限りません。また、「あれがしたい、これがしたい」と思っても、いつも好きなことができるというわけではありません。むしろ、自分の思う通りにならないことが大半ではないでしょうか。「物足りない」という思いが募ると、人間が苦しくなります。
 「夢」「前向き」「プラス思考」なども、私たちの鼻の前にぶら下がっているニンジンのようなものです。それを必死になって追い求めているうちは生きる苦しさを忘れることができるかもしれませんが、求めているそのものがいつまでたっても手に入らないということがわかれば、その絶望感がなおさら大きいです。
 人間は周りの物ごとばかりに執着しているのではありません。一番厄介な執着は、自分自身に対する執着です。「別に自分に生まれ変わりたい」とか、「ありのままの自分を表現できない」という思いで苦しむ人も少なくないでしょう。あるいは、今はよくても「年をとりたくない」「死が怖い」などという執着もあります。「執着をするのは悪い」という人もいますが、逆に「私には執着がなさすぎて、生きることがつまらない。何かに執着がしたいけど、何もない!」という複雑な執着の持ち主もいます。
 私がこの本で皆さんに送りたいメッセージはごく簡単なものです。
「執着はあってもいいし、なくてもいい。生きることで悩まなくてもいいし、悩んでもいい」
 「自分」「愛」「仕事」「親と子」「老と死」など、執着の対象となる物ごとは数えきれません。「執着があってはならない」というのも、ひとつの執着に過ぎないから、執着があるならあったで、その執着と上手に付き合いながら生きていきましょう。しかし執着がなければないほど、悩みの種も減りますう。執着がないからといって、それで悩む必要はないでしょう。』

以下は、摂心明けの放参、本堂の裏と表で撮影した動画です。堂頭が英語で、提唱で話していた正法眼蔵・行持の摩訶迦葉の頭陀行と、欧米と日本の葬式について説明しています。

二〇〇二年、アメリカのジョージア州の火葬場の事件について、ウィキペディナの英語版が詳しいです:
en.wikipedia.org/wiki/Tri-State_Crematory