Monthly Archives: October 2017

秋晴れの本堂回り、2017年10月26日

久しぶりに晴れたので、収穫したばかりの稲を本堂前の石畳で天日干ししました。今年もおかげさまで、稲刈りが無事に終了しました(一部、「古代米」の収穫は残っています)。白菜、大根と人参も順調に育っています:

先日、ブログ「一法寺」では内山興正老師の講話集が公開されました:
http://blog.goo.ne.jp/ippouji/e/4c69ddf7aab3235baa4b78ebad077009

安泰寺6代目の住職の貴重な音声をユーチューブにもアップさせていただきました:

学道用心集講義「有所得の心を用つて佛法を修すべからざる事」、2017年10月20日

毎月、京都府宮津市にある智源寺専門僧堂で講義をさせていただいています。
次回は11月24日(金)
今回は『学道用心集』の三回目の講義でした:

有所得の心(しん)を用つて佛法を修すべからざる事
右、仏法修行は、必ず先達(せんだつ)の真訣(しんけつ)を稟(うけ)て、私の用心を用いざるか。
況や仏法は、有心(うしん)を以つて得可からず。無心を以て得べからず。但だ操行(そうぎょう)の心と道と符合(ふごう)せずんば、身心未だ嘗(かつ)て安寧(あんねい)ならず。身心未だ安寧ならずんば身心安楽ならず。身心安楽ならずんば、道を證するに荊棘(けいきょく)生ず。所謂(いわゆる)操行と道と合して、如何(いかん)が行履(あんり)せん。心取捨(しんしゅしゃ)せず、心名利(みょうり)無きなり。仏法修行は是れ人の為に修せず。今世人(こんぜにん)の如き、仏法修行の人、其の心と道と遠(とお)くして遠し。若し人(ひと)賞翫(しょうがん)すれば、縦(たと)え非道と知るも、乃ち之れを修行す。
若し恭敬(くぎょう)し讃歎(さんたん)せずんば、是れ正道(しょうどう)と知ると雖も、棄てて修せず。痛(いた)ましき哉(かな)。
汝等(なんじら)試みに心を静かにして観察せよ、此の心行(しんぎょう)、仏法とせんや、仏法に非ずとせんや。恥(は)ずべし恥ずべし。聖眼(しょうげん)の照す所なり。夫(そ)れ仏法修行の者は、尚お自身の為にせず、況や名聞利養(みょうもんりよう)の為に之を修せんや。但だ仏法の為に之を修すべきなり。
諸佛の慈悲、衆生を哀愍(あいみん)するは、自身の為にせず、他人の為にせず、唯だ仏法の常(つね)なり。見ずや、小虫畜類(しょちゅうちくるい)すら、其の子を養育するに、身心艱難(かんなん)、経営苦辛(けいえいくしん)し、畢竟(ひつきょう)長養すれども、父母に於いて終に益なきをや。然れども子を念(おも)うの慈悲あり。小物すら尚お然り、自(おの)ずから諸佛の衆生を念うに似たり。
諸佛の妙法は、唯だ慈悲の一條(いちじょう)のみにあらず、普(あま)ねく諸門に現ず。其の本(もと)皆(みな)然り。既に仏子(ぶつし)たり、葢(な)んぞ仏風(ぶつぷう)に慣(な)らわざらんや。行者(ぎょうじゃ)、自身の為に仏法を修すと念(おも)う可からず、名利の為に仏法を修す可らず、果報(かほう)を得んが為に仏法を修す可からず、霊験(れいげん)を得んが為に仏法を修す可からず、但だ仏法の為に仏法を修す、乃(すなわ)ち是れ道(どう)なり。

 君見ずや、絶学無為(ぜつがくむい)の閑道人、妄想を除かず真を求めず―『証道歌』

 無功徳・廓然無聖・不識 ―菩提達磨と梁武帝の問答

 山僧叢林を歴ること多からず。ただ是れ等閑に天童先師に見えて、当下に眼横鼻直なることを認得して人に瞞ぜられず。すなわち空手還郷す。ゆえに一毫も仏法無し。―『永平広録』

 はなてばてにみてり、一多のきわならんや、かたればくちにみつ、縦横きわまりなし。 ―『弁道話』

 …無智・亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃… ―『般若心経』

「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」―『創世記』3:17-19

普門の「マイ・ラスト・ダルマ・トーク」 (Japanese/English)、2017年10月14日

原文:

【6-9】
 示して云く、海中に龍門と云處ありて、洪波しきりにたつなり。諸の魚ども彼の處を過ぬれば、必ず龍となるなり。故に龍門と云なり。いま思ふ、彼の處洪波も他所にことならず、水も同くしわはゆき水なり。然れども定まれる不思議にて、魚ども彼の處を渡れば必ず龍と成る。魚の鱗もあらたまらず、身も同じ身ながら、たちまちに龍となるなり。衲子の儀式も亦かくのごとし。處も他所にことならねども、叢林に入りぬれば必ずしも佛と成り祖となるなり。食も人と同く喫し、衣も同く服し、飢を除き寒を禦(フセ)ぐことも齊しけれども、只髮を剃り袈裟を着して食を齋粥にすれば、忽ちに衲子と成るなり。成佛作祖、遠く求むべきにあらず。只叢林に入と入ざるとは、彼の龍門を過ると過ざるとの別の如し。亦俗の云く、我れ金を賣れども人の買ふなしと。佛祖の道も亦かくのごとし。道を惜むにはあらず、常に與ふれども人の得ざるなり。道を得ることは根の利鈍にはよらず。人人皆法を悟るべきなり。精進と懈怠とによりて得道の遲速あり。進怠の不同は志しの至ると至らざるとなり。志しの至らざることは無常を思はざる故なり。念念に死去す。畢竟じて且くも留まらず、暫く存ぜる間だ、時光を空くすごすことなかれ。古語に云ふ、倉にすむ鼠み食に飢へ、田を耕す牛草に飽かずと。云心は、食の中にありながら食にうえ、草の中に住しながら草に乏し。人もかくのごとし。佛道の中に有りながら道にかなはざるものなり。名利希求の心止まざれば、一生安樂ならざるなり。

【6-10】
 示して云く、道者の行は善行惡行につき皆おもはくあり。凡人の量る所にあらず。昔し慧心僧都、一日庭前に草を食ふ鹿を、人をして打ち追はしむ。時に或る人問て云く、師慈悲なきに似り、草を惜みて畜生を惱ますか。僧都の云く、しかあらず、吾れ若し是を打ち追はずんば此の鹿ついに人になれて、惡人に近づかん時は必ず殺されん。この故にうちおふなりと。これ鹿を打追は、慈悲なきに似たれども内心は慈悲の深き道理、かくのごとし。

Dogen instructed,
In the ocean, there is a place called the Dragon-Gate, where vast waves rise incessantly. Without fail, all fish once having passed through this place become dragons. Thus, the place is called the Dragon-Gate.
The vast waves there are not different from those in any other place, and the water is also ordinary salt water. Despite that, mysteriously enough, when fish cross that place, they all become dragons. Their scales do not change and their bodies stay the same; however, they suddenly become dragons.
The way of Zen monks is also like this. Although it is not a special place, if you enter a sorin (monastery), without fail you will become a buddha or a patriarch. You eat meals and wear clothes as usual; thus you stave off hunger and keep off the cold just the same as other people do. Still, if you shave your head, put on a kesa, and eat gruel for breakfast and rice for lunch, you will immediately become a Zen monk. Do not seek afar to become a buddha or a patriarch. Becoming one who either passes through the Dragon Gate or not depends only on entering a sorin (monastery), just the same as the fish.
There is a saying in the secular world, “I sell gold, but no one will buy it.” The Way of the buddhas and patriarchs is also like this. It is not that they begrudge the Way; even though it is always being offered, no one will accept it. To attain the Way does not depend on whether you are inherently sharp or dull witted. Each one of us can be aware of the dharma. Slowness or quickness in […]

秋雨の本堂回り、2017年10月6日