Sesshu’s World of Zen in Ink
NHK World ドキュメンタリー “Sesshu’s World of Zen in Ink”:
Sebastian “explains” Shobogenzo Zuimonki 6-4, 6-5 & 6-6, September 14th 2017
【6-4】
雜話の次でに示して云く、學道の人衣食にわづらふことなかれ。此の國は邊地小國なりといへども、昔も今も顯密の二敎に名をゑ、後代にも人にも知られたる人おほし。或は詩歌管絃の家、文武學藝の才、其道を嗜む人もおほし。かくの如き人人未だ一人も衣食に豊かなりと云ことを聞かず。皆貧を忍び他事を忘れて、一向に其の道を好むゆへに、其の名をも得るなり。いはんや祖門學道の人は、渡世を捨てヽ一切名利に走らず、何としてか豊かなるべきぞ。大宋國の叢林には末代なりといへども、學道の人千萬人ある中に、或は遠方より來り、或は鄕土より出たるも有り。いづれも多分は貧なり。しかあれどもいまだ貧をうれへとせず。只悟道の未だしきことをのみ愁へて、或は樓上、或は閣下に坐して、考妣に喪するが如くにして、一向に佛道を修するなり。まのあたり見しことは、西川(セイセン)の僧、遠方より來れりし故に、所持の物なし。纔に墨二三丁もてり。そのあたひ兩三百文、此國の兩三十文にあたれるを持て、唐土の紙の下品なる極めて弱きを買ひとりて、襖ま或は袴などに作てきぬれば、起ち居に破るるおとして、あさましきをも顧みず、うれへざるなり。或る人の云く、汝鄕里にかへりて道具裝束とヽのへよと。答て云く、鄕里遠方なり、路次の間に光陰を空ふして、學道の時を失せんことを憂ふと云て、猶更に寒をも愁へずして學道せしなり。しかある故に大國にはよき人も出來るなり。
In a talk on various subjects, Dogen instructed:
Students of the Way, do not worry about food and clothing. Although Japan is a small country, far removed (from the Buddha’s country), there are quite a few people who were famous as scholars of the Exoteric and Esoteric Teachings, and who have become known to later generations. There are also many people who devote themselves to poetry, music, literature, and the martial arts. I have never heard of even one of them who had an abundance of food and clothing. They became known because they all endured poverty and forgot about other matters, so they could devote themselves completely to their own profession.
This is all the more true of people learning the Way in this tradition of the patriarchs. They have abandoned their occupations in society, and never seek after fame and profit. How could they become wealthy? Although this is the degenerate age, there are thousands of people in the monasteries in China who are learning the Way. There are some who came from remote districts or left their home provinces. In any case, although they never worry about their poverty, almost all of them are poor. Their only concern is that they have not yet attained the Way. Sitting either in a lofty building or under it, they practice [zazen] wholeheartedly as if they had lost their mother.
I personally met a monk from Shisen who had no possessions because he had come from a remote district. All he had was a few pieces of ink stick. They cost about two or three hundred mon in China, which is about twenty or thirty mon in Japan. He sold them, bought […]
「悟りとは?」、2017年9月9日
仏教公開講座@廣誓寺(金沢市)
資料:
「悟り」の英語
Satori
Enlightenment
Awakening
Realization
Manifestation
禅には見性ということがある。これは悟りのまたの名で、霊性的直覚である。これは隻手の声なら隻手、無字なら無字、そのものに成りきって、三昧の境地に入ったとき、自然に感得するところのものである。三昧はただ無我夢中になるということでない。その中に自覚――霊性的自覚がなくてはならぬ。
悟りは悟った者のみの絶対の所有である。それは伝達することもできないし、分割することもできない。悟りは悟りそのものであり、権威そのものであり、悟りが自分を自証するのであり、厳格にいえば、他の何びとの認証をも必要としないものである。―鈴木大拙『金剛経の禅、禅への道』他
私の宗旨は悟りも要らぬ、悟りもない。小声で「悟りもない」と云ふのではない。大きな声で「悟りもない!」と云ふのである。―澤木興道『禅談』
ただ静かに坐禅する―このことだけが、今や私に残された、ただ一つの道でした。
まだ初秋とはいえ、すっかり秋らしくなってしまった信州の寺の、ガランとした僧堂の中に、外からさしこむ月光を受け、しげくすだく虫の声を聞きながら、ただ一人坐禅していたあの夜のことを、今でも思い出します。
それは何か大変すばらしいことを思いついたような派手な快感ではありませんでした。むしろただ求めにもとめたかけずりまわり、疲れはてたあげく、「まあひとやすみ」とホコをおさめて静かに坐ったとき、かえってそこに何か、ホノボノとした安らぎを、――もし「感覚以上の感覚」「覚知以上の覚知」といったものがありとすれば、そんなもので、わずかにそれを見出したとでもいえましょうか。
…〈中略〉…今にして思えば、たしかこのころから私には、そこに何か、あるものが熟しつつあったようです。それから一、二年たち、舞台は信州から京都にうつり、京都でも臘八接心のあるとき、本師老師は
「仏法は無量無辺。小さなお前の思わくを、物足りさすものであろうわけがない」と。
――まさにこの言葉こそ、青天の霹靂、迅雷のごとく、私の身内(しんない)に轟(とどろ)きわたり、にわかに通じられた電流によって、従来の私はひっくりかえされてしまいました。
…〈中略〉…「坐禅はサトリを『手籠め』にしたいという『思い』の手段となるべきではなく、かえって、坐禅とは本来『手放しの身構え』である。それでこの『無量無辺』を 『無量無辺』ならしめる『手放しの身構え』に、ただまかせてゆくことが坐禅というものであり、また真実の自分というものでなければならない。つまり『私が坐禅をする』のではなく、『坐禅で私をする』ことこそが、真実というものなのだ」と。―内山興正『自己』
諸佛如來ともに妙法を單傳して、阿耨菩提を證するに、最上無爲の妙術あり。これただ、ほとけ佛にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり。この三昧に遊化(戯)するに、端坐参禪を正門とせり。この法は、人々の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、證せざるにはうることなし。―『弁道話』
問て云く、破戒にして虚く人天の供養を受け、無道心にして、徒に如來の福分を費やさんより、在家人に隨ふて在家の事をなして、命ながらへて能く修道せんこと如何ん。
答て云く、誰か云ひし破戒無道心なれと。只強て道心を發し佛法を行ずべきなり。いかに況や持戒破戒を論ぜず、初心後心を分かたず、齊しく如來の福分を與ふとは見へたれども、破戒ならば還俗すべし、無道心ならば修行せざれとは見へず。誰人か初めより道心ある。只かくの如く發し難きを發し、行じがたきを行ずれば、自然に增進するなり。人々皆な佛性あり。徒づらに卑下すること莫れ。―『正法眼蔵随聞記1-16』
しかあれば我れらも賎(いやし)く拙なしと云ふとも、發心修行せば決定得道すべしと知て、即ち發心するなり。古へも皆な苦を忍び寒にたゑて、愁ひながら修行せしなり。今の學者苦るしく愁るとも只しひて學道すべきなり。―『随聞記4-6』
示して云く、大慧禪師、ある時尻に腫物出ぬれば、醫師此を見て大事の物なりと云ふ。慧の云く、大事の物ならば死ぬべきや否や。醫師云く、ほとんどあやふかるべし。慧の云く、若し死ぬべくんば彌よ坐禪すべしと云て、猶を強て坐しければ、其の腫物うみつぶれて別の事なかりき。古人の心かくのごとし。
―『随聞記5-16』
學道の人も、初めより道心なくとも、只しひて佛道を好み學せば、終には實の道心も起るべきなり。
―『随聞記6-7』
今生に發心せずんば何の時を待てか行道すべきや。今強て修せば必ずしも道を得べきなり。
―『随聞記6-16』
(古人云く、 霧の中を行けば覚えざるに衣しめる。)
無道心の人も、一度二度こそつれなくとも、度度聞ぬれば、霧露の中に行が如く、いつぬるヽとも覺へざれども、自然に衣のうるほふが如くに、良人の言ばをいくたびも聞けば、自然にはづる心も起り、實の道心も起るなり。―『随聞記5-15』
知るべし行を迷中に立てて、証を覚前に獲ることを。…〈中略〉…
参学の人、且く半途(迷)にして始めて得たり、全途(迷)にして辞すること莫れ。―『学道用心集』
自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。
迷を大悟するは諸佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。
諸佛のまさしく諸佛なるときは、自己は諸佛なりと覺知することをもちゐず。 しかあれども證佛なり、佛を證しもてゆく。…〈中略〉…
佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。―『正法眼蔵・現成公案』
此の宗は悪人を手本となして善人を摂するなり。聖道門は善人を手本となして悪人を摂するなり。
―法然上人
善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。
―『歎異抄』
薬あればとて毒をこのむべからず。―『歎異抄』
松影の 暗きは月の 光かな
示して云く、大慧禪師の云く學道は須く人の千萬貫の錢を債(お)ひけるが、一文をも持たざるに、乞責らるヽ時の心の如くすべし。若しこの心あれば、道を得ることやすしといへり。信心銘に云く、至道かたきことなし、唯だ揀擇を嫌ふと。揀擇の心だに放下しぬれば、直下に承當するなり。揀擇の心を放下すると云は、我をはなるヽなり。佛道を行じて代りに利益を得ん爲に、佛法を學すと思ふことなかれ。只佛法の爲に佛法を修行すべきなり。縱ひ千經萬論を學し得て、坐禪の床を坐破するとも、此の心なくんば佛祖の道を得べからず。只すべからく身心を放下して、佛法の中に置て、他に隨ひて舊(旧)見なければ、即ち直下に承當するなり。―『随聞記5-18』
A→ 垂直方向で上向き→ 私から絶対者(神・仏・空・天地一杯の命・云々…)へ
B→ 垂直方向で下向き→ 絶対者から私へ
C→ 水平方向で横向き→ 私より他者を
心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ…〈中略〉…自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。―『マルコによる福音書』12:30~31
だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。
だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。―『ルカによる福音書14:26・27 & 9:23・24』
もしわたしたちの不義が、神の義を明らかにするとしたら、なんと言うべきか。怒りを下す神は、不義であると言うのか(これは人間的な言い方ではある)。断じてそうではない。もしそうであったら、神はこの世を、どうさばかれるだろうか。しかし、もし神の真実が、わたしの偽りによりいっそう明らかにされて、神の栄光となるなら、どうして、わたしはなおも罪人としてさばかれるのだろうか。むしろ、「善をきたらせるために、わたしたちは悪をしようではないか」(わたしたちがそう言っていると、ある人々はそしっている)。彼らが罰せられるのは当然である。すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。」…〈中略〉…
律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないのである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。…〈中略〉…すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。…〈中略〉…すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。…〈中略〉…
ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。…〈中略〉…
では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。それとも、あなたがたは知らないのか。…〈中略〉…わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。―『ローマ人への手紙3:5-28 & 5:19/20 & 6:1-11』
愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。
すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。愛さない者は、神を知らない。
神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。―『ヨハネの第一の手紙』4:7‐12
義認は信仰によってのみ得られるが、善行は信仰のしるしだ。―『義認教義に関する共同宣言』1999年
仏教A:「自受用三昧」「仏道をならふといふは、自己をならふなり」
仏教B:「自己をならふといふは、自己をわするるなり」「身心脱落」「仏の方よりおこなわれて…」
仏教C:「自未得度先度他」「おろかなる 吾れは仏に ならずとも 衆生を渡す 僧の身ならん」「雨ニモマケズ…」
(1)生死の中に仏あれば、生死なし。
(2)またいはく、生死の中に仏なければ、生死にまどはず。
(3)こころは夾山・定山といはれし、ふたりの禅師のことばなり。得道の人のことばなれば、さだめてむなしくもうけじ。
(4)生死をはなれんとおもはむ人、まさにこの旨をあきらむべし。もし人、生死のほかにほとけをもとむれば、ながえをきたにして越にむかひ、おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。
(5)いよいよ生死の因をあつめて、さらに解脱のみちをうしなヘり。ただ生死すなわち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし このときはじめて、生死をはなるる分あり。
(6)生より死にうつるとこころうるは、これあやまりなり。生はひとときのくらいにて、すでにさきありのちあり。かるがゆゑに、仏法のなかには、生すなはち不生といふ。滅もひとときのくらゐにて、またさきありのちあり、これによりて滅すなはち不滅といふ。
(7)生というときには、生よりほかにものなく滅というときは、滅のほかにものなし。かるがゆゑに、生きたらば、ただこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひてつかふべし。いとうことなかれ、ねがふことなかれ。
(8)この生死は、すなはち仏の御いのちなり。
(9)これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとするなり。これにとどまりて、生死に著すれば、これも仏のいのちをうしなうなり。仏のありさまをとどむるなり。
(10)いとうことなく、したうことなき、このときはじめて、仏のこころにいる。ただし心をもてはかることなかれ、ことばをもていうことなかれ。
(11)ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくときちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。
(12)仏となるにいとやすきみちあり。もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のためにあはれみふかくして、かみをうやまひ、しもをあはれみ、よろづをいとうこころなく、ねがふこころなくて、心におもうことなく、うれうることなき、これを仏となづく。またほかにたづぬることなかれ。
―『正法眼蔵・生死』
雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル 一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ陰ノ 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ 東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ 北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ
南無無辺行菩薩 南無上行菩薩 南無多宝如来
南 無 妙 法 蓮 華 経
南無釈迦牟尼仏 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩 ―宮沢賢治
春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり
峯の色 谷のひびきも みなながら わが釈迦牟尼の 声と姿と
草の庵に ねてもさめても 申す事 南無釈迦牟尼仏 憐み給へ
おろかなる 吾れは仏に ならずとも 衆生を渡す 僧の身ならん
―『傘松道詠』
信心銘味読会(6回目)、2017年9月8日
会場はスリランカ料理店「キャンディ」:
Kandyroyalfood.com
facebook.com/kandyroyalfood/
次回の講義(7回目)は10月12日(藤田一照担当)
次々回(8回目)は11月22日(ネルケ無方担当)
申し込み方法: 件名「法話会」でkandy(アッと)vkj.co.jpへお申し込み下さい。
前半の資料:
(1)至道無難、唯嫌揀択、但だ憎愛莫ければ、洞然(とうねん)として明白(めいはく)なり。毫釐(ごうり)も差有れば、天地懸(はるか)に隔たる。現前を得んと欲せば、順逆を存すること莫かれ。違順(いじゅん)相爭う、是を心病と爲す。玄旨(げんし)を識らざれば、徒(いたず)らに念靜(ねんじょう)を労す。円(まどか)なること大虚(たいきょ)に同じ、欠ること無く餘ること無し。良(まこと)に取捨に由る、所以(ゆえ)に不如なり。
(2)有縁を逐うこと莫れ、空忍に住すること勿かれ、一種平懷なれば、泯然(みんねん)として自(おのず)から盡く。動を止めて止に歸すれば、止更に彌(いよい)よ動ず。唯両辺に滞(とどこお)らば、寧ろ一種を知らんや、一種通ぜざれば、両処に功を失す。有を遣(や)れば有に沒し、空に隨(したが)えば空に背く。多言多慮、転(うた)た相応せず、絶言絶慮、処として通ぜずということ無し。根に帰すれば旨(し)を得、照に隨えば宗を失す。須臾(しゅゆ)も返照すれば、前空に勝却(しょうきゃく)す。前空の転変は、皆妄見に由る。真を求むることを用いず、唯須らく見を息(や)むべし。
(3)二見に住せず、慎しんで追尋すること勿れ。纔(わずか)に是非有れば、紛然として心を失す。二は一に由て有り、一も亦守ること莫れ。一心生ぜざれば、万法に咎無し。咎無ければ法無し、生ぜざれば心ならず。能は境に隨って滅し、境は能を逐うて沈す。境は能に由て境たり、能は境に由て能たり。両段を知らんと欲せば、元是れ一空、一空両に同じく、齊しく万象を含む、精粗を見ず、寧(なん)ぞ偏党あらんや。
(4)大道體寬にして、難(なん)無(な)く易(い)無し、小見は狐疑(こぎ)す、轉(うたた)急なれば轉遲(おそ)し。之(これ)を執(しゅう)すれば度を失して、必ず邪路に入る、之を放てば自然なり、体に去住無し。性に任ずれば道に合(かな)う、逍遙として惱を絶す。繋念は眞に乖(そむ)き、昏沈(こんちん)は不好なり。不好なれば神を勞す、何ぞ疎親することを用いん。一乘に趣かんと欲せば、六塵を悪(にく)むこと勿れ。六塵を惡まざれば、還て正覚に同じ。
(5)智者は無爲なり、愚人は自縛す。法に異法無し、妄(みだ)りに自から愛著す。心を将(もっ)て心を用う、豈大錯(たいしゃく)に非(あら)ざらんや。迷えば寂乱(じゃくらん)を生じ、悟れば好悪(こうお)無し。一切の二辺、妄りに自から斟酌(しんしゃく)す。夢幻空華(むげんくうげ)、何ぞ把捉(はしゃく)に労せん。得失是非、一時に放却せよ。
眼若し睡らざれば、諸夢自(おのず)から除く。心若し異ならざれば、万法一如なり。一如体玄なり、兀爾(こつじ)として縁を忘ず。萬法斉しく観ずれば、帰復(きぶく)自然(じねん)なり。其(そ)の所以(ゆえん)を泯(みん)じて、方比すべからず。
摩訶般若波羅蜜多心経―心の大いなる手放しのレシピ
観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。
―観自在という菩薩(本来の自己)が、完全な思いの手放し(般若波羅蜜多)を実践しているまさにその時、はっきりと見てとった: 五蘊(色・受・想・行・識)がすべて空であることを。だから彼(=本来の私)は一切の悩み苦しみを超えていて、自由である。
舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。
―菩薩は言った:「舎利子(そのことにまだ気づかないでいるもう一人の私)よ、あなたが生きているという事実(色)の他には、真実(空)はない。空という真実以外には、事実の世界もない。事実はそのまま真実、真実はそのまま事実である。同じことはそのまま、見るもの聞くもの(受)についても、思うこと(想)についても、反応すること(行)についても、また、あなたが生きている命そのもの(識)についても、いえるのだ」
舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。
―「舎利子(=もう一人の私)よ、あなたが生きている『空』という真実はいつ、どこから現れたわけではなく、いつどこかへ消えるわけでもない。この真実には『俗』や『聖』といった区別もない。この真実が増えたり、減ったりもしない」
是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。
―「空の本質は『無』である。大いなる空に広がる『無』の色・声・香・味・触・法を頂戴する、この『無』の眼・耳・鼻・舌・身・意があり、それをわが命として生かす『無』の色・受・想・行・識があるのだ」
無眼界、乃至、無意識界。無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智・亦無得。
―「あなたが見ている世界も『無』なら、あなたの意識も『無』だ。無明から始まり、老死で終わる十二因縁も『無』だ。苦しみの自覚から、苦しみからの解放に至る道まで、すべては『無』だ。この『無』の知恵もまた『無』であり、『無』の知恵を得ることも『無』だ」
以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。
―「得るものも得られるものも『無』がゆえに、菩薩たちはただ自分を手放す『般若波羅蜜多』をひたすらに実践している。自分を手放せば、心は自由になる。心が自由になれば、不安は消える。不安が消えれば、今ここに落ち着いて、毎日の生活の中で涅槃を見つけるのだ」
三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
―「すべての仏たちも同じように、自分を手放している。この手放しこそが、阿耨多羅三藐三菩提と言われる最高の悟りの内容である」
故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。
―「さて、今から力強い掛け声を聞かそう。私の声に合わせて、あなたも仏・菩薩の仲間として、自分を手放してみよ。自分を忘れてこそ、初めて苦しみから自由になれるのだ」
故説、般若波羅蜜多呪。即説呪曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。
―掛け声はこうだ:「ぎゃーてい、ぎゃーてい、はーらーぎゃてい、はらそーぎゃーてい、ぼーじーそわか」
般若心経―これは、心の手放しのレシピだ。
「この発言はうそだ!」と私は言う。私の発言は本当なのか? うそなのか?
「私はどうしようもない凡夫だ」というその人は、どうしようもない凡夫なのか?
「俺は悟っている。自我を忘却し、自他一如の境地にいる。お前には自我がある。悟りの「さ」の字もない、妄想分別にまみれた凡夫なのだ」という人は本当に悟っているのか?
「悟れば一切の区別を乗り越える。まだ区別にとらわれている間、悟ることはできない」という人はどうか?
執着を捨てて涅槃に入ることは仏教の目的だ。涅槃に入りたいという目的は、執着ではないのか?
「思い(アタマ)の手放し」という思い(アタマ)を、いかに手放せるか?
「すべては無常だ」と仏教は説く。この真実も無常なのか?
「自己矛盾語」 (英語: heterological word )という単語は自己矛盾語なのか?
ある床屋は、自分で髭を剃らない人全員の髭を剃り、それ以外の人の髭は剃らない。ところが、床屋自身の髭は誰が剃るのか?
ある医師は「自分の病気を自分で治せる人を、私は治療しない。それ以外の人を、すべてこの私が治療する」と宣言した。そのとき医師は病気になった。彼の病気を誰が直すのか?
6.54 私を理解する人は、私の命題を通り抜け―その上に立ち―それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行う。(いわば、梯子をのぼりきった者は梯子を投げ捨てねばならない。)私の諸命題を葬りさること。そのとき世界を正しく見るだろう。
7 語りえぬことについては、沈黙せねばならない。Whereof one cannot speak, thereof one must be silent. ―ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』
信心銘の読み下しと現代語訳:
shomonji.or.jp/zazen/shinjinmei.pdf
後半の資料:
示して云く、學道の人は吾我の爲に佛法を學することなかれ。只佛法の爲に佛法を學すべきなり。其の故實は我が身心を一物ものこざず放下して、佛法の大海に廻向すべきなり。其の後は一切の是非管ずることなく、我が心を存ずることなく、なし難く忍び難きことなりとも、佛法の爲につかはれて、しひて此れをなすべし。我が心に強てなしたきことなりとも、佛法の道理なるべからざる事は放捨すべきなり。―『正法眼蔵随聞記5-2』
道(どう)に向って修行すべき事
右、学道の丈夫(じょうぶ)は、先(ま)づ須(すべか)らく道(どう)に向うの正(しょう)と不正(ふしょう)とを知るべきなり。夫(そ)れ、釋雄調御(しゃくゆうちょうご)、菩提樹下(ぼだいじゅげ)に坐して、明星(みょうじょう)を見ることを得て、忽然(こつねん)として頓(とん)に無上乗(むじょうじょう)の道(どう)を悟る。其の悟る所の道は、声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)等の能(よ)く及ぶ所に非ず。佛(ほとけ)能く自(みず)から悟りて、佛、佛に傳へて、今に断絶(だんぜつ)せず。其の悟を得る者は、豈(あ)に佛に非(あら)ざらんや。
所謂(いわゆる)道に向うとは、佛道の涯際(がいさい)を了ずるなり。佛道の様子(ようす)を明(あきら)むるなり。佛道は人人(にんにん)の脚踉下(きゃくこんか)なり。道に礙(さ)えられて当處(とうじょ)に明了(めいりょう)し、悟(ご)に礙(さ)えられて当人(とうにん)円成(えんじょう)す。是(こ)れに因りて縦(たと)え十分(ぶん)の會(え)を挙(こ)すと雖も、猶(な)お一半(ぱん)の悟に落(おつ)るか。是れ則ち道に向うの風流なり。
而今(にこん)、学道の人は、未だ道の通塞(つうそく)を辨ぜず、強いて見驗(けんげん)の有らんことを好む。錯(あやま)らざるは阿誰(たれ)ぞ。父を捨て逃逝(とうぜい)し、宝を捨てて令并(れいへい)す。長者(ちょうじゃ)の一子たりと雖も、久しく客作(かくさ)の賤人(せんにん)と作(な)る。良(まこと)に以(ゆえ)あり。
夫(そ)れ、學道の者は、道に礙えらるることを求む。道に礙えらるるとは、悟跡(ごしゃく)を忘(ぼう)ずるなり。佛道を修行する者は、先づ須(すべか)らく佛道を信ずべし。佛道を信ずる者は、須らく自己本(もと)道中に在りて、迷惑せず、妄想せず、顛倒(てんどう)せず、増減なく、誤謬(ごびゅう)なしということを信ずべし。是(かく)の如くの信を生じ、是の如くの道を明め、依(よ)って之を行ず、乃ち學道の本基(ほんき)なり。
其の風規(ふうき)たる、意根(いこん)を坐断して、知解(ちげ)の路に向わざらしむるなり。是れ乃ち初心を誘引(ゆういん)するの方便なり。其の後、身心を脱落し、迷悟を放下す、第二の様子なり。
大凡(おおよ)そ自己佛道に在りと信ずるの人、最も得難きなり。若し正しく道に在りと信ぜば、自然に大道の通塞(つうそく)を了じ、迷悟の職由(しょくゆう)を知らん。人試みに意根を坐断せよ、十が八九は、忽然(こつねん)として見道することを得ん。―『学道用心集』
設ひ發病して死すべくとも、猶只是れを修すべし。病ひ無ふして修せず、此の身をいたはり用ひてなんの用ぞ。病ひして死せば本意なり。…此の如く案じつヾけて、思ひ切て晝夜端坐せしに、一切に病ひ發らず。今各も一向に思ひきりて修して見よ。十人は十人ながら得道すべきなり。『随聞記1‐14』
坐禅ににらまれ、坐禅に叱られ、坐禅にジャマされ、坐禅に引きずられながら、泣き泣き暮らすということは、もっとも幸福なことではないか。―澤木興道『禅に聞け』
「マインドフルネスと私」、2017年9月3日
1日~3日 秋田県の田沢湖でおこなわれたTruenature Retreat 2017の最後のクラス。
宮崎駿さんのアニメに出てきそうな「思い出の潟分校」の三四年生教室での話です。参加者全員は、いちおう大人です。