Monthly Archives: April 2016

リトリートのキャンプファイヤー、2016年4月30日

「哲学者に会いにゆこう」「サンガ・ジャパン」「仏教の冷たさ キリスト教の危うさ」の紹介、2016年4月26日

「哲楽」のホームページ:philosophy-zoo.com/

「永井の歌声」など:哲楽珈琲について/

最近の講演記録:「無」とは何か?

インタービュー(part I):子育てでイライラしないためには?

インタービュー(part II):大事なのはキュウリ?

vedaのクラス広告:「禅、日本、そして私」

それ以外のイベント:ネルケ無方の講演予定

新緑の安泰寺、2016年4月17日

無為の輪講:「正法眼蔵随聞記」2-21〈日本語&英語)、2016年4月14日

安泰寺の薬石&輪講:「正法眼蔵随聞記」2-18、2016年4月8・9日

「自分で釣った魚以外は食べない」という神田君。なんとなく嘘くさい。

再び永井均さんの哲学について、2016年4月6日

永井均さんから、「存在と時間―哲学探究1」という新しい御著書が届きました!
そこで再び、「≪私≫はなぜ私?」という問いについて、考察してみました。

二週間ほど前、私は次の問題を提起しました:
「〈私〉はなぜ私?」という問いは、誰の問いか。私の問い、それとも〈私〉の問いか。

私の今の気持ちとしては、その問題は解決されました!(これで本当に「解決」といえるかどうか、わかりませんが・・・)
どう解決したかといえば、「〈私〉」という言葉を、「現実」という言葉に置き換えるによって、
「私はなぜ〈私〉か?」という問は、「私はなぜ現実か」という問に変わります。その問いは誰の問かといえば、もちろん私の問でもあり、(今ここの問であれば)現実の問でもあります。
私が同じ問を、明日にも同じように問うたならば(あるいは、別次元のドッペルゲンガーとか、〈私〉ではなくなった場合の私(風間さんの質問)など)その問は字面上では同じ問でも、同じ問ではない。なぜならば、現実化が可能な無数の問の中で、「現に」現実の問は今ここの問だけであって、それ以外の問は「なぜ私が現実の私」「なぜ今が現実の今」という形をとったとしても、「現実ではない」という一番本質的な意味においてでは、けっして同じ問ではない。そして、永井均先生がおっしゃるように、この違いこそ、この問で問われている。

私をこの二週間で惑わせていたのは、「私(ネルケ無方)の中に宿っている別の〈私〉〉」という考えでした。
宿っている〈私〉はいわば「完全な受動的意識」のように、後ろで手が縛られ、猿ぐつわされ、考えることすら許されていない魂です(そういう意味では、キリスト教やヒンドゥー教の魂とは違います)。
宿われている私は、現にビデオの前で話している私=ネルケ無方です。しかし、このネルケ無方が〈私〉であることには気づいていないはず、と私は考えていました。それは間違いでした。

「宿っている私=〈私〉」「宿われている私=私(ネルケ)」という風に考えてしまうと、「『私はなぜ〈私〉か?』という問は、誰の問か」という二重の問に答えられなくなってしまいます。

つまり、
宿っている私=〈私〉
宿られている私=私

というのが間違いで、
むしろ
現実(いまここ)=〈私〉
私=私

でなければならない(はずです)。
「私はなぜ〈私〉か?」という問の意味は、「なぜこの私の世界だけが現実なのか」でした。それは私の問であり、今ここにおいてのみ現実の問です。

途中からは、倫理の問題について話しています。
問題1:「現実の私が≪今ここ、この人≫しかないのに、そうして完全にエゴイスティックな生き方ができないのか。逆に、エゴイスティックになり切れないのに、どうして≪自他一如≫の実感もないのか?」
問題2:「今日の快楽のために、明日の≪私≫を犠牲にする人もいれば、その逆もいる。現実では明日の≪私≫の世界を現実の私の世界と連続しているようにとらえているのに、他者の世界をそう捉えていないのはなぜ?また逆に、ケチな人は明日の≪私≫のためにためているが、借金してまで人におごる人もいるのはなぜ?」
などについて、まとまらない考えを述べています。

最後の二本のビデオでは
「私が痛い」
という時の、様々な「痛い」と様々な「私」について考察します。

「痛い」そのものも、
「痛い」というラベルを張るものも、
それを「深い」に感じるのも、
それから逃れようとするものも、
それを我慢しようとするものも、
それを無視しようとするものも、
「時間はまだかなぁ」と思うものも、
「いまここ」になりきろうとするものも、
それを真上から、ジーと観察するものも、
すべては私であり、決して〈私〉ではないのです。
いや、現実であるという意味では、すべては私であり〈私〉ですが、曽我量尽さん的に言い換えれば、
すべての私は〈私〉であって、〈私〉は私でありえない
どんな時でも、その時だけは「現実」ですが、その現実は時間内の出来事ではありません。