仏教公開講座@廣誓寺(金沢市)

資料:

「悟り」の英語
Satori
Enlightenment
Awakening
Realization
Manifestation

禅には見性ということがある。これは悟りのまたの名で、霊性的直覚である。これは隻手の声なら隻手、無字なら無字、そのものに成りきって、三昧の境地に入ったとき、自然に感得するところのものである。三昧はただ無我夢中になるということでない。その中に自覚――霊性的自覚がなくてはならぬ。
悟りは悟った者のみの絶対の所有である。それは伝達することもできないし、分割することもできない。悟りは悟りそのものであり、権威そのものであり、悟りが自分を自証するのであり、厳格にいえば、他の何びとの認証をも必要としないものである。―鈴木大拙『金剛経の禅、禅への道』他

私の宗旨は悟りも要らぬ、悟りもない。小声で「悟りもない」と云ふのではない。大きな声で「悟りもない!」と云ふのである。―澤木興道『禅談』

ただ静かに坐禅する―このことだけが、今や私に残された、ただ一つの道でした。
まだ初秋とはいえ、すっかり秋らしくなってしまった信州の寺の、ガランとした僧堂の中に、外からさしこむ月光を受け、しげくすだく虫の声を聞きながら、ただ一人坐禅していたあの夜のことを、今でも思い出します。
それは何か大変すばらしいことを思いついたような派手な快感ではありませんでした。むしろただ求めにもとめたかけずりまわり、疲れはてたあげく、「まあひとやすみ」とホコをおさめて静かに坐ったとき、かえってそこに何か、ホノボノとした安らぎを、――もし「感覚以上の感覚」「覚知以上の覚知」といったものがありとすれば、そんなもので、わずかにそれを見出したとでもいえましょうか。
…〈中略〉…今にして思えば、たしかこのころから私には、そこに何か、あるものが熟しつつあったようです。それから一、二年たち、舞台は信州から京都にうつり、京都でも臘八接心のあるとき、本師老師は
「仏法は無量無辺。小さなお前の思わくを、物足りさすものであろうわけがない」と。
――まさにこの言葉こそ、青天の霹靂、迅雷のごとく、私の身内(しんない)に轟(とどろ)きわたり、にわかに通じられた電流によって、従来の私はひっくりかえされてしまいました。
…〈中略〉…「坐禅はサトリを『手籠め』にしたいという『思い』の手段となるべきではなく、かえって、坐禅とは本来『手放しの身構え』である。それでこの『無量無辺』を 『無量無辺』ならしめる『手放しの身構え』に、ただまかせてゆくことが坐禅というものであり、また真実の自分というものでなければならない。つまり『私が坐禅をする』のではなく、『坐禅で私をする』ことこそが、真実というものなのだ」と。―内山興正『自己』

諸佛如來ともに妙法を單傳して、阿耨菩提を證するに、最上無爲の妙術あり。これただ、ほとけ佛にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり。この三昧に遊化(戯)するに、端坐参禪を正門とせり。この法は、人々の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、證せざるにはうることなし。―『弁道話』

問て云く、破戒にして虚く人天の供養を受け、無道心にして、徒に如來の福分を費やさんより、在家人に隨ふて在家の事をなして、命ながらへて能く修道せんこと如何ん。
答て云く、誰か云ひし破戒無道心なれと。只強て道心を發し佛法を行ずべきなり。いかに況や持戒破戒を論ぜず、初心後心を分かたず、齊しく如來の福分を與ふとは見へたれども、破戒ならば還俗すべし、無道心ならば修行せざれとは見へず。誰人か初めより道心ある。只かくの如く發し難きを發し、行じがたきを行ずれば、自然に增進するなり。人々皆な佛性あり。徒づらに卑下すること莫れ。―『正法眼蔵随聞記1-16』

しかあれば我れらも賎(いやし)く拙なしと云ふとも、發心修行せば決定得道すべしと知て、即ち發心するなり。古へも皆な苦を忍び寒にたゑて、愁ひながら修行せしなり。今の學者苦るしく愁るとも只しひて學道すべきなり。―『随聞記4-6』

示して云く、大慧禪師、ある時尻に腫物出ぬれば、醫師此を見て大事の物なりと云ふ。慧の云く、大事の物ならば死ぬべきや否や。醫師云く、ほとんどあやふかるべし。慧の云く、若し死ぬべくんば彌よ坐禪すべしと云て、猶を強て坐しければ、其の腫物うみつぶれて別の事なかりき。古人の心かくのごとし。
―『随聞記5-16』

學道の人も、初めより道心なくとも、只しひて佛道を好み學せば、終には實の道心も起るべきなり。
―『随聞記6-7』

今生に發心せずんば何の時を待てか行道すべきや。今強て修せば必ずしも道を得べきなり。
―『随聞記6-16』

(古人云く、 霧の中を行けば覚えざるに衣しめる。)
無道心の人も、一度二度こそつれなくとも、度度聞ぬれば、霧露の中に行が如く、いつぬるヽとも覺へざれども、自然に衣のうるほふが如くに、良人の言ばをいくたびも聞けば、自然にはづる心も起り、實の道心も起るなり。―『随聞記5-15』

知るべし行を迷中に立てて、証を覚前に獲ることを。…〈中略〉…
参学の人、且く半途(迷)にして始めて得たり、全途(迷)にして辞すること莫れ。―『学道用心集』

自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。
迷を大悟するは諸佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。
諸佛のまさしく諸佛なるときは、自己は諸佛なりと覺知することをもちゐず。 しかあれども證佛なり、佛を證しもてゆく。…〈中略〉…
佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。―『正法眼蔵・現成公案』

此の宗は悪人を手本となして善人を摂するなり。聖道門は善人を手本となして悪人を摂するなり。
―法然上人

善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。 
―『歎異抄』

薬あればとて毒をこのむべからず。―『歎異抄』       

松影の 暗きは月の 光かな

示して云く、大慧禪師の云く學道は須く人の千萬貫の錢を債(お)ひけるが、一文をも持たざるに、乞責らるヽ時の心の如くすべし。若しこの心あれば、道を得ることやすしといへり。信心銘に云く、至道かたきことなし、唯だ揀擇を嫌ふと。揀擇の心だに放下しぬれば、直下に承當するなり。揀擇の心を放下すると云は、我をはなるヽなり。佛道を行じて代りに利益を得ん爲に、佛法を學すと思ふことなかれ。只佛法の爲に佛法を修行すべきなり。縱ひ千經萬論を學し得て、坐禪の床を坐破するとも、此の心なくんば佛祖の道を得べからず。只すべからく身心を放下して、佛法の中に置て、他に隨ひて舊(旧)見なければ、即ち直下に承當するなり。―『随聞記5-18』

A→ 垂直方向で上向き→ 私から絶対者(神・仏・空・天地一杯の命・云々…)へ
B→ 垂直方向で下向き→ 絶対者から私へ
C→ 水平方向で横向き→ 私より他者を

心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ…〈中略〉…自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。―『マルコによる福音書』12:30~31

だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。
だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。―『ルカによる福音書14:26・27 & 9:23・24』

もしわたしたちの不義が、神の義を明らかにするとしたら、なんと言うべきか。怒りを下す神は、不義であると言うのか(これは人間的な言い方ではある)。断じてそうではない。もしそうであったら、神はこの世を、どうさばかれるだろうか。しかし、もし神の真実が、わたしの偽りによりいっそう明らかにされて、神の栄光となるなら、どうして、わたしはなおも罪人としてさばかれるのだろうか。むしろ、「善をきたらせるために、わたしたちは悪をしようではないか」(わたしたちがそう言っていると、ある人々はそしっている)。彼らが罰せられるのは当然である。すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。」…〈中略〉…
律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないのである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。…〈中略〉…すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。…〈中略〉…すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。…〈中略〉…
ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。…〈中略〉…
では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。それとも、あなたがたは知らないのか。…〈中略〉…わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。―『ローマ人への手紙3:5-28 & 5:19/20 & 6:1-11』

愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。
すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。愛さない者は、神を知らない。
神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。―『ヨハネの第一の手紙』4:7‐12

義認は信仰によってのみ得られるが、善行は信仰のしるしだ。―『義認教義に関する共同宣言』1999年

仏教A:「自受用三昧」「仏道をならふといふは、自己をならふなり」
仏教B:「自己をならふといふは、自己をわするるなり」「身心脱落」「仏の方よりおこなわれて…」
仏教C:「自未得度先度他」「おろかなる 吾れは仏に ならずとも 衆生を渡す 僧の身ならん」「雨ニモマケズ…」

(1)生死の中に仏あれば、生死なし。
(2)またいはく、生死の中に仏なければ、生死にまどはず。
(3)こころは夾山・定山といはれし、ふたりの禅師のことばなり。得道の人のことばなれば、さだめてむなしくもうけじ。
(4)生死をはなれんとおもはむ人、まさにこの旨をあきらむべし。もし人、生死のほかにほとけをもとむれば、ながえをきたにして越にむかひ、おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。
(5)いよいよ生死の因をあつめて、さらに解脱のみちをうしなヘり。ただ生死すなわち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし このときはじめて、生死をはなるる分あり。
(6)生より死にうつるとこころうるは、これあやまりなり。生はひとときのくらいにて、すでにさきありのちあり。かるがゆゑに、仏法のなかには、生すなはち不生といふ。滅もひとときのくらゐにて、またさきありのちあり、これによりて滅すなはち不滅といふ。
(7)生というときには、生よりほかにものなく滅というときは、滅のほかにものなし。かるがゆゑに、生きたらば、ただこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひてつかふべし。いとうことなかれ、ねがふことなかれ。
(8)この生死は、すなはち仏の御いのちなり。
(9)これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとするなり。これにとどまりて、生死に著すれば、これも仏のいのちをうしなうなり。仏のありさまをとどむるなり。
(10)いとうことなく、したうことなき、このときはじめて、仏のこころにいる。ただし心をもてはかることなかれ、ことばをもていうことなかれ。
(11)ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆくときちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる。たれの人か、こころにとどこほるべき。
(12)仏となるにいとやすきみちあり。もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のためにあはれみふかくして、かみをうやまひ、しもをあはれみ、よろづをいとうこころなく、ねがふこころなくて、心におもうことなく、うれうることなき、これを仏となづく。またほかにたづぬることなかれ。
―『正法眼蔵・生死』

雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 
慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル 一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ陰ノ 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ 東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ 北ニケンクヮヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ
南無無辺行菩薩 南無上行菩薩 南無多宝如来 
南  無  妙  法  蓮  華  経 
南無釈迦牟尼仏 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩     ―宮沢賢治

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり
峯の色 谷のひびきも みなながら わが釈迦牟尼の 声と姿と
草の庵に ねてもさめても 申す事 南無釈迦牟尼仏 憐み給へ
おろかなる 吾れは仏に ならずとも 衆生を渡す 僧の身ならん
―『傘松道詠』