学道用心集につづいて、昨日から弁道話の輪講を行っています。
今日は愚聖さんの番でした。「自受用三昧」について、一生懸命に説明しようとしていますが、答えが出る前にカメラの電池が切れてしまいました。ああ、残念・・・。

原文:

諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨菩提を証するに、最上無為の妙術あり。これただ、ほとけ仏にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり。

この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。この法は、人々の分上にゆたかにそなわれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし。

はなてばてにみてり、一多のきはならんや、かたればくちにみつ、縦横きはまありなし。
諸仏のつねにこのなかに住持たる、各々の方面に知覚をのこさず、群生のとこしなへにこのなかに使用する、各々の知覚に方面あらはれず。
いまおしふる工夫弁道は、証上に万法あらしめ、出路に一如を行ずるなり。その超関脱落のとき、この節目にかかはらんや。

予、発心求法よりこのかた、わが朝の遍方に知識をとぶらひき。ちなみに建仁の全公をみる。あひしたがふ霜華すみやかに九廻をへたり。いささか臨済の家風をきく。全公は祖師西和尚の上足としてひとり無上の仏法を正伝せり。あへて余輩のならふべきにあらず。予かさねて大宋国におもむき、知識を両浙にとぶらひ家風を五門にきく。つひに太白峰の浄禅師に参じて一生の参学の大事ここにをはりぬ。それよりのち大宋紹定のはじめ本郷にかへりしすなはち弘法救生をおもひとせり。なほ重担をかたにおけるがごとし。

しかあるに弘通のこころを放下せむ激揚のときをまつゆゑに、しばらく雲遊萍寄してまさに先哲の風をきこえむとす。ただしをのづから名利にかかはらず道念をさきとせん真実の参学あらむか、いたづらに邪師にまどはされて、みだりに正解をおほひむなしく自狂にゑうてひさしく迷郷にしづまん。なにによりてか般若の正種を長じ得道の時を得ん。貧道はいま雲遊萍寄をこととすればいづれの山川をとぶらはむ。これをあはれむゆゑに、まのあたり大宋国にして禅林の風規を見聞し、知識の玄旨を稟持せしを、しるしあつめて参学閑道の人にのこして仏家の正法をしらしめんとす。これ真訣ならむかも。

いはく大師釈尊霊山会上にして法を迦葉につけ祖祖正伝して菩提達磨尊者にいたる。尊者みづから神丹国におもむき法を慧可大師につけき。これ東地の仏法伝来のはじめなり。かくのごとく単伝しておのづから六祖大鑑禅師にいたる。このとき真実の仏法まさに東漢に流演して節目にかかはらぬむねあらはれき。
ときに六祖に二位の神足ありき。南嶽の懐譲と青原の行思となり。ともに仏印を伝持しておなじく人天の導師なり。その二派の流通するによく五門ひらけたり。いはゆる法眼宗、潙仰宗、曹洞宗、雲門宗、臨済宗なり。見在大宋には臨済宗のみ天下にあまねし。五家ことなれどもただ一仏心印なり。大宋国も後漢よりこのかた教籍あとをたれて一天にしかりといへどもいまださだめざりき。祖師西来ののち直に葛藤の根源をきり純一の仏法ひろまれり。わがくににもまたしかあらんことをこひねがふべし。

いはく仏法を住持せし諸祖ならびに諸仏ともに自受用三昧に端坐依行するをその開悟のまさしきみちとせり。西天東地さとりをえし人その風にしたがえり。これ師資ひそかに妙術を正伝し真訣を稟持せしによりてなり。