7月26日 10:00 第19回夏期大学講座「禅といま」奥村正博老師「菩薩の誓願」
7月27日 15:30~17:30 ACC 新宿教室 坐禅実修
7月27日 18:30~20:30 ACC 新宿教室 ふたりの禅僧対談
7月30日 19:00~20:30 由比ガ浜公会堂 『今を生きるための般若心経の話』刊行記念対談

エルンスト・シューマッハー著『スモール イズ ビューティフル』 第四章「仏教経済学」

 仏教の八正道の一つに「正しい生活」がある。したがって、仏教経済学があってしかるべきである。…〈中略〉…経済学者も多くの専門家の例にもれず、経済学は絶対・不変の真理をもつ科学であり、それには何の前提もないという形而上学的な誤りをよくおかしている。その中には、経済法則というものが重力の法則のように、「形而上学」ないし「価値」と無縁であると主張している者さえいる。しかし、ここでは方法論の論議に立ち入る必要はない。その代りに基本的な問題をとりあげて、それを現代経済学から見た場合と、仏教経済学から見た場合とで、どのように違うかを眺めてみよう。
 富の基本的な源泉が人間の労働であるという点については、だれしも異論はないところである。さて、現代の経済学者は「労働」や仕事を必要悪ぐらいにしか考えない教育を受けている。雇い主の観念からすれば、労働はしょせん一つのコストにすぎず、これは、たとえばオートメーションを採り入れて、理想的にはゼロにしたいとところである。労働者の観点からいえば、労働は「非効用」である。働くということは、余暇と楽しみを犠牲にすることであり、この犠牲を償うのが賃金ということになる。したがって、雇い主からすれば、雇用者なしで生産することが理想であるし、雇い人の立場からすれば働かないで所得を得ることが理想である。
 このような態度が理論と実践に及ぼす影響は、いうまでもなくきわめて甚大である。仕事. についての理想が仕事を逃れることであるとすれば、「仕事を減らせる」ならどんな方法でもよいことになる。オートメーションを別とすれば、いちばん効果のある方法は、いわゆる「分業」である。…〈中略〉…ここで扱われているのは、人類が大昔から行なってきた通常の分業ではなくて、一つの完結した生産工程を分割して、完成品を高速度で生産できるようにする分業であり、この分業では、個々の労働者はまったく無意味で訓練もほとんどいらない手足の動作だけを繰り返せばよいのである。
 仏教の観点からすると、仕事の役割というものは少なくとも三つある。人間にその能力を発揮・向上させる場を与えること、一つの仕事を他に人たちとともにすることを通じて自己中心的な態度を捨てさせること、そして、最後に、まっとうな生活に必要な財とサービスを造り出すことである。
 ここでも、このような考え方の影響するところは甚大である。 仕事というものを労働者にとって無意味な退屈で、いやになるような、ないし神経をすりへらすようなものにすることは、犯罪スレスレである。それは人間よりもモノに注意を向けることであり、慈悲心を欠くことであり、人間生活のいちばん遅れた面にやみくもに執着することである。
 同じように、仕事の代わりに余暇を求めるのは、人生の基本的な真理を正しく理解していない。その真理とは、仕事と余暇は相補って生という一つの過程を作っているものであって、二つを切り離してしまうと、仕事の喜びも余暇の楽しみも失われ仕事の喜びも余暇の楽しみも失われてしまうことである。
 仏教徒の立場からすれば、機械化には二種類あって、それははっきりと区別しなければならない。第一は人間の技能と能力を高める機械化であり、第二は人間の仕事を機械という奴. 隷に引き渡し、人間をその奴隷への奉仕者にしてしまう機械化である。…〈中略〉…
 人間は仕事がまったく見つからないと、絶望に陥るが、それは単に収入がなくなるからではなくて、規律正しい仕事だけが持っている、人間を豊かにし活力を与える要素が失われてしまうのが原因である。現代の経済学者は、完全雇用は「引き合うか」とか、労働の移動性を高め、賃金をもっと安定させるためには、完全雇用よりやや低めの雇用状態で経済を運営するのがより「経済的」ではないか、などについて精緻な研究を行なうだろう。その場合、成功の決め手になるのは、一定期間に生産される財の量である。…〈中略〉…
 仏教的な考え方からすれば、それは真理をさかさまにしたもの、モノを人間より尊び、創造的活動より消費を重視するものである。それが意味するところは、力点を労働者から労働の生産物に移すということであり、いい換えれば、人間から人間以下のものに移すことであり、悪の力に屈伏することである。仏教経済学で経済計画を作るとすれば、まず完全雇用の計画から出発するだろう。そして、その目標は「家庭外の」仕事を求めるすべての人たちに職を与えることである。雇用の極大化でも、生産の極大化でもない。…〈中略〉…
 唯物主義者が主としてモノに関心を払うのに対して、仏教徒は解脱(悟り)に主たる関心. を向ける。だが、仏教は「中道」であるから、けっして物的な福祉を敵視しはしない。解脱. を妨げるのは富そのものではなく、富への執着なのである。楽しいことを享受することそれ自体ではなく、それを焦(こが)れ求める心なのである。仏教経済学の基調は、したがって簡素と非暴力である。経済学の観点からみて仏教徒の生活が素晴らしいのは、その様式がきわめて合理的なこと、つまり驚くほどわずかな手段でもって十分な満足を得ていることである。
 現代経済学者には、これが非常に理解しにくい。「生活水準」を測る場合、多く消費する人が消費の少ない人より「豊かである」という前提に立って、年間消費量を尺度にするのがつねだからである。仏教経済学者にいわせれば、この方法はたいへん不合理である。そのわけは、消費は人間が幸福を得る一手段にすぎず、理想は最小限の消費で最大限の幸福を得ることであるはずだからである。 そこで、もしも衣服の目的とするところが一定の快適な温度と見た目のよさだとすると、この目的を最小限の労力、つまり年間の衣服の消耗を最小限にして、衣服のデザインももっとも簡素にすることで達成しなければならない。このような労力が少なければ少ないほど、幻術的創造に力と時間を割くことができる。たとえば裁断しない布をたくみにひだをととってまとえば、ずっと美しくなるのに、現代のヨーロッパ風の手の込んだ仕立ての衣服はすぐ擦り切れたり形が崩れて醜くみすぼらしいものになってしまうのは、野蛮で粗野なこおとである。衣服について述べたことは他の必需品のすべてに当てはまる。モノの所有と消費は目的を達成する手段である、仏教経済学は一定の目的をいかにして最小限の手段で達成するかについて、組織的に研究するものである。
 これに反して現代経済学は消費が経済活動の唯一の目的であると考えて、土地、労働、資本といった生産要素をその手段と見る。つまり仏教経済学が適正規模の消費で人間としての満足を極大化しようとするのに対し、現代経済学は、適正規模の生産努力で消費を極大化しようとする。消費を適正規模に抑える生活様式をとるには、最大限の消費への欲求を満たす場合よりはるかに少ない努力で足りることは見やすい道理である。…〈中略〉…
 簡素と非暴力とが深く関連していることは明らかである。適正規模の消費は、比較的低い消費量で高い満足感を与え、これによって人々は圧迫感や緊張感無しに暮らし、「すべて悪しき事をなさず、善いことおこなう」という仏教の第一の戒律を守ることができる。
物質資源には限りがあるのだから、自分の必要をわずかな資源で満たす人たちは、これを沢山使う人たちより争そいことが少ないのは理の当然である。同じように、地域社会の中で高度に自給自足的な暮らしをしている人たちは、世界各国との貿易に頼って生活している人たちよりも戦争などに巻き込まれることがまれである。
そこで仏教経済学の見地からするならば、地域の必要に応じて、地域でとれる資源を使って生産をおこなうことがもっとも合理的な経済生活ということになる。遠い外国からの輸入に頼り、その結果、見知らぬ遠い国の人たちの輸出品を送りこむために生産を行うといったことは、例外的な場合、またごく小規模な場合はともかくとして極めて不経済なことである。現代経済学者が通勤のために高い交通費は不幸であって、生活水準の高さを意味するものではないと認めているのと同様に、仏教経済学者は欲求を満たすのに手近にある資源を使わずに遠隔地の資源に頼るのは、経済的成功どころかむしろ失敗だと主張するのである。現代経済学者は、国民一人当たりの輸送量(一マイルあたりのトン数で表示される)数値が上がればそれが経済進歩の証左だというが、この同じ数字が 仏教経済学者にかかると消費の様式が悪化した指標になる。
現代経済学と仏教経済学のもう一つのいちじるしい違いは、天然資源の使用について生じてくる。…〈中略〉…釈尊の教えは、いっさいの生物に対してだけではなく、とりわけ樹木 に対して敬虔で優しい態度で接することを求める。すべての仏教徒には、何年おきかに一本の木を植え、これがしっかりと根づくまで見守る義務がある。そして、仏教経済学者は、万人がこの義務を守るならば、外国援助がまったくなくても、本当の高度な経済開発ができることを容易に証明できるのである。東南アジア(他の地域も同様であるが)の経済が振わないわけは、疑いもなく森林を許しがたいほどなおざりにしてきたことによるのである。
現代経済学では、その方法論がカネで表わした価格によってすべてのものを同一化し、数量化するものである以上、再生可能の物質と再生不能の物質とを区別しない。その結果、石炭、石油、薪、水力といった、たがいに代替できる燃料の間の唯一の違いは、現代経済学者にとっては、一単位当たりの相対コストだけになる。もっともコストの低いものが当然好まれる。これがいちばん合理的、「経済的」だからである。
仏教経済学者にいわせれば、もちろんこれでは駄目である。石炭、石油のような再生不能の燃料と、薪や水力のような再生可能な燃料との間には、本質的な違いがあるのであって、この違いはけっして無視できない。再生不能財は、やむをえない場合に限って使うべきもので、その場合でも、それを保全するために最善の注意と細心の配慮を払わなければならない。 こういう財を不用意に、ぜいたくに使うことは、一種の暴力行為である。現実には完全な非暴力ということはありえないかもしれないが、何を行なうにしても非暴力の理想を目指すのが、人間としての絶対的義務である。
ヨーロッパの経済学者とても、ヨーロッパの美術品が全部高値でアメリカに売れた場合、これを経済的大成功とは思わないだろう。これとまったく同様に、仏教経済学者は再生不能の燃料に頼って生活する人たちを、所得ではなく資本を食って寄生的な生活をしているものと主張するだろう。そのような生活様式は、長続きできず、まったく一時的な方便としてしか許されまい。石炭、石油、天然ガスといった再不能の燃料資源は、その地域的分布がきわめて偏っており、総量にも限界があるから、それをどんどんと掘り出していくのは、自然に対する暴力行為であり、それはまず間違いなく、人間同士の暴力沙汰にまで発展するものである。
この一事だけでも、仏教国にありながら、昔から伝わる宗教的・精神的価値を顧みず、できるだけ早く現代経済学の唯物主義を採り入れようと熱望している人たちの反省の材料になるだろう。仏教経済学などは昔をなつかしむ夢物語にすぎないとして排斥する前に、現代経済学が描いているような経済開発のやり方で本当に自分たちの希望が達成できるのかどうか、反省する気になるのではなかろうか。…〈中略〉…
仏教経済学の研究を、精神や宗教の価値よりも経済成長のほうが重要だと信じている人たちにもすすめたいのは、現在われわれが経験している困難と将来の予想との二つを考えてのことである。というのは、問題は「近代的成長」をとるか「伝統的停滞」を選ぶかの選択ではないからである。問題は正しい経済成長の道、唯物主義者の無頓着と伝統主義者の沈滞の間の中道、 つまり八正道の『正しい生活』を見出すことである。

引用元 centerforneweconomics.org/sites/default/files/japanese.pdf

 「豊かな生活を追い求めることのみが多すぎて、人間性の高貴なるもの、尊厳ということが忘れられつつある時、宗教本来の果たす役割である豊かな人生ということを、発現し展開することが、我々修行者の使命でなければならない。宗教という名のもとに、利潤を追求したり、豊かな生活を願望すること自体が、宗教者、修行者自身を放棄することであるから。…〈中略〉…なに故に都会からこのような山深い地に移転するのかと、多くの人に問われたことであった。その問いは実は、我々自身が己れの内面に向かって終生問い続け、そして忘れてはならないことである。中国唐代の百丈禅師は、坐禅修行者の僧団を初めて開設した人であるが、その中心となるものは、『一日為さざれば、一日食らわず』であった。禅宗本来の姿はそこにあった。我々がここで行事しようとすることは、単に目新しいことをしようとしているのではなく、歴史的な背景にもとづいた古来の日常生活を今、事実行うことである。宗教者や教団に対する不信は、宗教というものを、より煩雑に、そして観念的にしてしまったことが原因である。宗教は真実に真剣に個々人の人生を生きようとする教えであるから、内容の伴なわない観念や思想であってはならない。汗を流して泥にまみれて耕作し、完全自給自足し、その中で坐禅を行じてゆくことが、我々修行者の果たさなければならない責任であり、うちに向かっての革命である。」

 一九七六年、兵庫県庁に提出された安泰寺の「取得理由書」より