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古東哲明著『マインドフルネスの背後にあるもの』を紹介、2019年2月9日 Thumb­nail-Bild 古東哲明著『マインドフルネスの背後にあるもの』を紹介、2019年2月9日

講義「坐禅で人を救えるか?」、2019年2月6日

「仏教と日本の現代社会」にまつわる質問

1. お宗派は何ですか。
「曹洞宗」

2. どちらの寺院に勤めていますか。 
「安泰寺」

3. 何年ぐらい僧侶をしているんですか。 
「25年間」

4. どうして僧侶をしているんですか。僧侶になった理由は? 
「簡単に言えば、高校生の頃に坐禅と出会い、それに魅せられた。鈴木大拙などの著書を読んで、将来日本で禅僧になる夢を持つようになった。大学で日本学を勉強してから、京都での留学を経て、縁あって安泰寺で出家得度。詳しくは拙著『迷える者の禅修行』を参照。」

5. 現代社会では、人々が宗教への関心を徐々に失っていくに伴って、宗教的な活躍も減っているとよく言われていますが、そう思いますか。どうしてですか。 
「人々が関心をなくしたから宗教的な活躍が減ったのではなく、逆に本来の宗教的な活躍がされていないため、人々の関心が薄れただけの話である。徳川時代の幕府の政策であった檀家制度の上には、いまだに大半の僧侶が胡坐をかいているのが一番の原因。それに加えて、日本の寺院が明治以降、世襲制になり、実質私物化されたしまったことも関係している。」

6. 忙しい生活を送っている現代人の人生には、仏教が実際に役に立つと思いますか。(「はい」なら、どのように役に立ちますか。)人々が現代社会の問題(いじめや自殺や忙しさなど)が仏教を通して乗り越えられると思いますか。 
「「人々」や「現代社会」が何かの問題の「乗り越える」ために仏教を利用されたくないが、各々が檀家制度の残骸にすぎない既成仏教とは違う、本来の仏教に目を向けたら、生きるためのヒントはいくらでも得られると思う。」

7. 昔からある伝統に結んでいる宗教として、仏教が日本でなくなったら、それは社会にどんな影響を与えると思いますか。 
「この問題については、拙著『日本に宗教は要らない』の第4章「もし日本から仏教がなくなったら・・・」に詳しい。ご参照まで添付。」

8. 現代社会では仏教を守るために、僧侶がたがどういう活躍をしているんですか。どのように一般の人々に興味を向上させますか。それが足りると思いますか。 
「最近の若い僧侶(お寺の副住職など)は様々な活躍を試みている。お寺でヨガやコンサートを開催したり、本堂で婚活パーティーをしたり、地域でボランティア活動をしたり、「坊主バー」のような変わったことまで、いろいろやっているのは事実。だが、私はそこに「信念」を感じられない。たとえて言うなら、イタリアンレストランで展覧会もやり、コンサートもやり、定期的に中華や和食のクッキング・スクールもするが、肝心なピッツァもスパゲッティも作れないありさま。なぜなら、問い4(「あなたはなぜ僧侶になったか」)にはっきりした答えを持っている僧侶が少ないからだ。何とかして一般人のニーズに答えようとするけれども、仏教者としての主張は皆無である。イタリアンだけが作れない、イタリアン料理屋のように…」

マインドフルネスとお茶の文化について:
「茶の湯とは只(ただ)湯をわかし茶をたてて呑むばかりなるものと知るべし」(千利休)

「飛石のうち、一つだけ一寸(ちょっと)高いが、倅(せがれ)は気が附かないと見えます」(利休)
「己も常々さう思つてゐた所なのだ。親父は流石にカンが鋭い」(道安)
「さては、道安め、己の言葉を聞いたと見える。だが、それにしても、よく気が附いて、こちらが帰るまでに直したものだ」(利休)
(鈴木大拙著『禅と日本文化』より引用)

坐禅の資料:
足の組み方(1)
足の組み方(2)
足の組み方(3)
足の組み方(4)
足の組み方(5)
足の組み方(6)(英語)
足の組み方(7)(英語)
腰について(1)(英語)
腰について(2)(英語)
手の組み方(英語)
正身端坐(英語)
腰について(2)(英語)
居眠り対策(英語)

昔、安泰寺HPのために書いたシリーズがあります:
大人の修行

マインドフルネスの問題点と正しい坐禅について、特に以下のページで触れています:
「マインドフル」なお心、 もう忘れてしまいなさい
心猿意馬
さがしものは何ですか
正しい坐り方
綿屑みたいな顔はみっともない!
坐禅を好きになること

「坐禅儀」の各バージョン:

原(たず)ぬるに夫(そ)れ、道本円通、争(いか)でか修証を仮(か)らん。宗乗(しゅうじょう)自在、何ぞ功夫を費さん。況んや全体逈(はる)かに塵埃(じんない)を出(い)づ、孰(たれ)か払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。大都(おおよそ)当処(とうじょ)を離れず、豈に修行の脚頭(きゃくとう)を用ふる者ならんや。然れども、毫釐も差有れば、天地懸(はるか)に隔り、違順(いじゅん)纔(わず)かに起れば、紛然として心を失す。直饒(たとい)、会(え)に誇り、悟(ご)に豊かに、瞥地(べつち)の智通(ちつう)を獲(え)、道(どう)を得、心(しん)を(の)明らめて、衝天の志気(しいき)を挙(こ)し、入頭(にっとう)の辺量に逍遥すと雖も、幾(ほと)んど出身の活路を虧闕(きけつ)す。矧(いわ)んや彼(か)の祇薗(ぎおん)の生知(しょうち)たる、端坐六年の蹤跡(しょうせき)見つべし。少林の心印を伝(つた)ふる、面壁九歳(めんぺきくさい)の声名(しょうみょう)、尚ほ聞こゆ。古聖(こしょう)、既に然り。今人(こんじん)盍(なん)ぞ辦ぜざる。所以(ゆえ)に須(すべか)らく言(こと)を尋ね語を逐ふの解行(げぎょう)を休すべし。須らく囘光返照の退歩を学すべし。身心自然(じねん)に脱落して、本来の面目現前せん。恁麼の事(じ)を得んと欲せば、急に恁麼の事を務(つと)めよ。
夫れ参禅は静室(じょうしつ)宜しく、飲食(おんじき)節あり、諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思はず、是非を管すること莫れ。心意識の運転を停め、念想観の測量(しきりょう)を止めて、作仏を図ること莫(なか)れ。豈に坐臥に拘(かか)はらんや。尋常(よのつね)、坐処には厚く坐物(ざもつ)を敷き、上に蒲団を用ふ。或(あるい)は結跏趺坐、或は半跏趺坐。謂はく、結跏趺坐は、先づ右の足を以て左の腿(もも)の上に安じ、左の足を右の腿の上に安ず。半跏趺坐は、但(ただ)左の足を以て右の腿を圧(お)すなり。寛(ゆる)く衣帯(えたい)を繋(か)けて、斉整(せいせい)ならしむべし。次に、右の手を左の足の上に安(あん)じ、左の掌(たなごころ)を右の掌の上に安ず。兩(りょう)の大拇指(だいぼし)、面(むか)ひて相(あい)拄(さそ)ふ。乃(すなわ)ち、正身端坐して、左に側(そばだ)ち右に傾き、前に躬(くぐま)り後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ。耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す。舌、上の腭(あぎと)に掛けて、脣歯(しんし)相(あい)著け、目は須らく常に開くべし。鼻息(びそく)、微かに通じ、身相(しんそう)既に調へて、欠気一息(かんきいっそく)し、左右搖振して、兀兀として坐定(ざじょう)して、箇(こ)の不思量底を思量せよ。不思量底、如何が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。所謂(いわゆる)坐禅は、習禅には非ず。唯、是れ安楽の法門なり。…『普勧坐禅儀』

參禪は坐禪なり。坐禪は靜處よろし。坐蓐あつくしくべし。風烟をいらしむる事なかれ、雨露をもらしむることなかれ、容身の地を護持すべし。かつて金剛のうへに坐し、盤石のうへに坐する蹤跡あり、かれらみな草をあつくしきて坐せしなり。坐處あきらかなるべし、晝夜くらからざれ。冬暖夏涼をその術とせり。
諸縁を放捨し、萬事を休息すべし。善也不思量なり、惡也不思量なり。心意識にあらず、念想觀にあらず。作佛を圖する事なかれ、坐臥を脱落すべし。飮食を節量すべし、光陰を護惜すべし。頭燃をはらふがごとく坐禪をこのむべし。黄梅山の五祖、ことなるいとなみなし、唯務坐禪のみなり。坐禪のとき、袈裟をかくべし、蒲團をしくべし。蒲團は全跏にしくにはあらず、跏趺のなかばよりはうしろにしくなり。しかあれば、累足のしたは坐蓐にあたれり、脊骨のしたは蒲團にてあるなり。これ佛佛祖祖の坐禪のとき坐する法なり。
あるいは半跏趺坐し、あるいは結果趺坐す。結果趺坐は、みぎのあしをひだりのももの上におく。ひだりの足をみぎのもものうへにおく。あしのさき、おのおのももとひとしくすべし。參差なることをえざれ。半跏趺坐は、ただ左の足を右のもものうへにおくのみなり。衣衫を寛繋して齊整ならしむべし。右手を左足のうへにおく。左手を右手のうへにおく。ふたつのおほゆび、さきあひささふ。兩手かくのごとくして身にちかづけておくなり。ふたつのおほゆびのさしあはせたるさきを、ほそに對しておくべし。正身端坐すべし。ひだりへそばだち、みぎへかたぶき、まへにくぐまり、うしろへあふのくことなかれ。かならず耳と肩と對し、鼻と臍と對すべし。舌は、かみの顎にかくべし。息は鼻より通ずべし。くちびる齒あひつくべし。目は開すべし、不張不微なるべし。かくのごとく身心をととのへて、欠氣一息あるべし。兀兀と坐定して思量箇不思量底なり。不思量底如何思量。これ非思量なり。これすなはち坐禪の法術なり。坐禪は習禪にはあらず、大安樂の法門なり。不染汚の修證なり。『正法眼蔵坐禅儀』

夫れ学般若の菩薩は、先ず当に大悲心を起こし、弘(ぐ)誓願を発し、精(たけ)く三昧を修し、誓って衆生を度し、一身の為に独り解脱を求めざるべし。乃ち諸縁を放捨し、万事を休息し身心一如にして、動静間無(へだてな)く、其の飲食を量って、多からず少なからず、其の睡眠を調えて節せず、恣にせず。坐禅せんと欲する時、閑静處(かんじょうしょ)に於いて厚く坐物を敷き、寛(ゆる)く衣帯を繋け、威儀をして齊整(せいせい)ならしめ、然る後、結跏趺坐せよ。先ず右の足を以って、左のももの上に安じ、左の足を右のももの上に安ぜよ。或いは、半跏趺坐も亦た可なり。但左の足を以って、右の足を圧すのみ。次に右の手を以って、左の足の上に安じ、左の掌を右の掌の上に安じ、両手の大拇指の面をもって相拄(あいささ)え、徐徐として身を挙し、前後左右、反覆揺振(はんぷくようしん)して、乃ち身を正しうして端坐せよ。左に傾き右に側(そばだ)ち、前に躬まり後に仰ぐことを得ざれ。腰脊頭頂(ようせきずちょう)骨節をして相拄え、状(かたち)浮屠(ふと)の如くならしめよ。又た身を聳(そび)やかすこと太(はなは)だ過ぎて、人をして気急不安(ききゅうふあん)ならしむることを得ざれ。耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対し、舌は上の顎(あぎと)を拄え、唇歯相著(しんしあいつけ)けしむることを要せよ。目は須らく微(すこ)し開き、昏睡を致すこと免るべし。若し禅定を得れば其の力最勝なり。古え習定の高僧有り、坐して常に目を開く。向(さ)きの法雲円通禅師も亦た、人の目(まなこ)を閉(と)じて坐禅するを訶して、以って黒山の鬼窟と謂えり。蓋(けだ)し深旨(じんし)あり、達者焉(これ)を知るべし。身相既に定まり、気息既に調い、然して後(のち)臍腹(さいふく)を寛放(かんほう)し、一切の善悪都て思量すること莫れ。念起らば即ち覚せよ。之を覚すれば即ち失す。久々に縁を忘すれば、自ら一片と成る。此れ坐禅の要術なり。窃(ひそ)かに謂うに坐禅は乃ち安楽の法門なり。…『禅苑清規・坐禅儀』

正法眼蔵行持の講義、2019年1月31日

 石頭大師は草庵を大石にむすびて石上に坐禪す。晝夜にねぶらず、坐せざるときなし。衆務を虧闕せずといへども、十二時の坐禪かならずつとめきたれり。いま原の一派の天下に流通すること、人天を利潤せしむることは、石頭大力の行持堅固のしかあらしむるなり。いまの雲門法眼のあきらむるところある、みな石頭大師の法孫なり。

 第三十一祖大醫禪師は、十四歳のそのかみ、三祖大師をみしより、服勞九載なり。すでに佛祖の祖風を嗣續するより、攝心無寐にして脅不至席なること僅六十年なり。化、怨親にかうぶらしめ、徳、人天にあまねし。眞丹の第四祖なり。
 貞觀癸卯の歳、太宗、師の道味を嚮び、風彩を瞻んとして、赴京を詔す。師、上表して遜謝すること前後三返、竟に疾を以て辭す。第四度、使に命じて曰く、如果して赴せずは、即ち首を取りて來れ。使、山に至つて旨を諭す。師乃ち頚を引いて刄に就く、神色儼然たり。使、之を異とし、廻つて状を以て聞す。帝彌加歎慕す。珍繒を就賜して、以てその志を遂ぐ。
 しかあればすなはち、四祖禪師は身命を身命とせず、王臣に親近せざらんと行持せる行持、これ千歳の一遇なり。太宗は有義の國主なり、相見のものうかるべきにあらざれども、かくのごとく先達の行持はありけると參學すべきなり。人主としては、引頚就刄して身命ををしまざる人物をも、なほ歎慕するなり。これいたづらなるにあらず、光陰ををしみ、行持を專一にするなり。上表三返、奇代の例なり。いま澆季には、もとめて帝者にまみえんとねがふあり。
 高宗の永徽辛亥の歳、閏九月四日、忽ちに門人に垂誡して曰く、一切諸法は悉く皆解脱なり。汝等各自護念すべし、未來を流化すべし。言ひ訖りて安坐して逝す。壽七十有二。本山に塔たつ。明年四月八日、塔の戸、故無く自ら開く、儀相生ける如し。爾後、門人敢てまた閉ぢず。
 しるべし、一切諸法悉皆解脱なり、諸法の空なるにあらず、諸法の諸法ならざるにあらず、悉皆解脱なる諸法なり。いま四祖には、未入塔時の行持あり、既在塔時の行持あるなり。生者かならず滅ありと見聞するは小見なり、滅者は無思覺と知見せるは小聞なり。學道にはこれらの小聞小見をならふことなかれ。生者の滅なきもあるべし、滅者の有思覺なるもあるべきなり。

 八年前の安泰寺: photos.app.goo.gl/xwsftZ7hbvavF9359

恵光の輪講「科学や文化の発展を素晴らしいと思うあなたへ」 & 「総理大臣はやっぱり偉いと思っているあなたへ」、2019年1月29日

16. To you who are impressed by scientific and cultural progress

We mustn’t forget that today’s science and culture have only developed out of the lowest levels of consciousness.
**
Everybody is talking about culture, but what is it besides a refinement of our illusions?
However much we iron out our drives, from a Buddhist standpoint, it’s got nothing to do with progress or civilization.
Everyone is talking these days about progress, but I wonder in which direction we’re actually progressing.
**
Everybody is talking about culture, but what kind of culture is it really? Lewd music, erotic dancing, pornographic literature – completely barbaric.
We stir up our own illusions and then complain about today’s youth and ask, “Who’s responsible for education these days?”
Faith means clarity and purity. It means settling down.
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Everyone is talking about art, but what is it really? Men and women glued to each other. What is it besides stimulation for our sexual desires?
**
No animal is as dishonest as a human being. Humans eat their party snacks and dance in a circle; they do scientific research and drop hydrogen bombs on each other.
**
When you observe insects in a tank, you see how they bite into each other and hold on with all their might. It must be amusing to observe from another corner of the universe how humans stock up on atomic and hydrogen bombs.
**
Acting clever while at the same time being the biggest idiots – that’s human fate.
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People love it when things are complicated. Though things are complicated enough – even when we try to keep them as simple as possible – there are still some who make an effort to be especially complicated in everything […]

ジョンの輪講「他人の目がすごく気になるあなたへ」、2019年1月27日

他人の目がすごく気になるあなたへ
1. To you who can’t stop worrying about how others see you

屁ひとつだって、人と貸し借りできんやないか。人人みな「自己」を生きねばならない。お前とわしとどちらが器量がいいか悪いかそんなこと比べてみんかてええ。
You can’t even trade a single fart with the next guy. Each and every one of us has to live out his own life. Don’t waste time thinking about who’s most talented.
**
目が、オレはカシコィのだげれど、位が低いとも思わず、眉はオレは役なしだげれど、位が高いと思わぬ。仏法の生活とは、この不知の活動である。
山だからというて高いと思わず、海だとて広いとも深いとも思わず、一切合財、不知の活動じゃ。
野鳥自啼花自笑、不干岩下坐禅人・野鳥は坐禅している人に、ひとついい声を聞かしてやろうと思って鳴くわけでもなく、花も人に美しく思ってもらおうと思って咲くのではない。坐禅人も、悟りをひらくために坐禅しているのではない。
みなただ自分が自分を自分しているのである。
The eyes don’t say, “Sure we’re lower, but we see more.”
The eyebrows don’t reply, “Sure we don’t see anything, but we are higher up.”
Living out the buddha-dharma means fulfilling your function completely without knowing that you’re doing it. A mountain doesn’t know it’s tall. The sea doesn’t know it’s wide and deep. Each and every thing in the universe is active without knowing it.
The bird’s singing and the flower’s laughter appear naturally,
completely independent from the person sitting in zazen at the foot of the cliff.

The bird doesn’t sing in honor of the person in zazen. The flower doesn’t blossom to amaze the person with her beauty. In exactly the same way, the person doesn’t sit in zazen in order to get satori. Every single being simply realizes the self, through the self, for the self.
**
宗教とは何ものにもダマサレヌ真新しの自己に生きることである。
Religion means living your own life, completely fresh and new, without being taken in by anyone.
**
オイ、どっちゃ向いとるんじゃ。藪にらみみたいな目をして。お前自身のこっちゃ。
Hey! What are you looking at? Don’t you see that it’s about you?
**
ケツの穴だからというて卑下せんでもいい。足だからというてストライキやらんでもいい。頭が一番エライというのでもない。ヘソが元祖だというていばらんでもいい。
総理大臣が一番エライと思うておるからオカシイ。目の代わりを鼻ではできぬ。耳の代わりを口ではできぬ。みな天上天下唯我独尊である。
The asshole doesn’t need to be ashamed of being the asshole. The feet don’t have any reason to go on strike just because they’re only feet. The head isn’t the most important of all, and the navel doesn’t need to imagine he’s the father of all things.
It’s strange though that people look at the prime minister as an especially important person. The nose can’t replace the eyes, and the mouth can’t replace […]

ジョンの輪講「他人の目がすごく気になるあなたへ」、2019年1月27日

他人の目がすごく気になるあなたへ
1. To you who can’t stop worrying about how others see you

屁ひとつだって、人と貸し借りできんやないか。人人みな「自己」を生きねばならない。お前とわしとどちらが器量がいいか悪いかそんなこと比べてみんかてええ。
You can’t even trade a single fart with the next guy. Each and every one of us has to live out his own life. Don’t waste time thinking about who’s most talented.
**
目が、オレはカシコィのだげれど、位が低いとも思わず、眉はオレは役なしだげれど、位が高いと思わぬ。仏法の生活とは、この不知の活動である。
山だからというて高いと思わず、海だとて広いとも深いとも思わず、一切合財、不知の活動じゃ。
野鳥自啼花自笑、不干岩下坐禅人・野鳥は坐禅している人に、ひとついい声を聞かしてやろうと思って鳴くわけでもなく、花も人に美しく思ってもらおうと思って咲くのではない。坐禅人も、悟りをひらくために坐禅しているのではない。
みなただ自分が自分を自分しているのである。
The eyes don’t say, “Sure we’re lower, but we see more.”
The eyebrows don’t reply, “Sure we don’t see anything, but we are higher up.”
Living out the buddha-dharma means fulfilling your function completely without knowing that you’re doing it. A mountain doesn’t know it’s tall. The sea doesn’t know it’s wide and deep. Each and every thing in the universe is active without knowing it.
The bird’s singing and the flower’s laughter appear naturally,
completely independent from the person sitting in zazen at the foot of the cliff.

The bird doesn’t sing in honor of the person in zazen. The flower doesn’t blossom to amaze the person with her beauty. In exactly the same way, the person doesn’t sit in zazen in order to get satori. Every single being simply realizes the self, through the self, for the self.
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宗教とは何ものにもダマサレヌ真新しの自己に生きることである。
Religion means living your own life, completely fresh and new, without being taken in by anyone.
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オイ、どっちゃ向いとるんじゃ。藪にらみみたいな目をして。お前自身のこっちゃ。
Hey! What are you looking at? Don’t you see that it’s about you?
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ケツの穴だからというて卑下せんでもいい。足だからというてストライキやらんでもいい。頭が一番エライというのでもない。ヘソが元祖だというていばらんでもいい。
総理大臣が一番エライと思うておるからオカシイ。目の代わりを鼻ではできぬ。耳の代わりを口ではできぬ。みな天上天下唯我独尊である。
The asshole doesn’t need to be ashamed of being the asshole. The feet don’t have any reason to go on strike just because they’re only feet. The head isn’t the most important of all, and the navel doesn’t need to imagine he’s the father of all things.
It’s strange though that people look at the prime minister as an especially important person. The nose can’t replace the eyes, and the mouth can’t replace […]

本堂回り、2019年1月26日



辨道話講義⑩、2019年1月22日

Ⓠ1 いまこの坐禅の功徳、高大なることをききをはりぬ。おろかならん人、うたがふていはん、「仏法におほくの門あり、なにをもてかひとへに坐禅をすすむるや。」
Ⓐ1 しめしていはく、「これ仏法の正門なるをもてなり。」

Ⓠ2 とふていはく、「なんぞひとり正門とする。」
Ⓐ2 しめしていはく、「大師釈尊、まさしく得道の妙術を正伝し、又 三世の如来、ともに坐禅より得道せり。このゆゑに正門なることをあひつたへたるなり。しかのみにあらず、西天東地の諸祖、みな坐禅より得道せるなり。ゆゑにいま正門を人天にしめす。」

(矧(いわ)んや彼(か)の祇薗の生知(しょうち)たる、端坐六年の蹤跡(しょうせき)見つべし。少林の心印を伝(つた)ふる、面壁九歳の声名(しょうみょう)、尚ほ聞こゆ。古聖(こしょう)、既に然り。今人(こんじん)盍(なん)ぞ辦ぜざる。所以に須(すべか)らく言(こと)を尋ね語を逐ふの解行(げぎょう)を休すべし。須らく囘光返照の退歩を学すべし。身心 自然に脱落して、本来の面目現前せん。恁麼の事を得んと欲せば、急に恁麼の事を務めよ。)

Ⓠ3 とふていはく、「あるいは如来の妙術を正伝し、または祖師のあとをたづぬるによらん、まことに凡慮(ぼんりょ)のおよぶにあらず。しかはあれども、読経念仏は、おのづからさとりの因縁となりぬべし。ただむなしく坐してなすところなからん、なにによりてかさとりをうるたよりとならん。」
Ⓐ3 しめしていはく、「なんぢいま諸仏の三昧、無上の大法を、むなしく坐してなすところなしとおもはん、これを大乗を謗(ぼう)ずる人とす。まどひのいとふかき、大海のなかにゐながら水なしといはんがごとし。すでにかたじけなく、諸仏 自受用三昧に安坐せり。これ広大の功徳をなすにあらずや。あはれむべし、まなこいまだひらけず、こころなほゑひにあることを。
おほよそ諸仏の境界は不可思議なり。心識のおよぶべきにあらず。いはんや不信劣智のしることをえんや。ただ正信の大機のみよくいることをうるなり。不信の人はたとひをしふともうくべきことかたし。霊山になお退亦佳矣(たいやくけい)のたぐひあり。おほよそ心に正信おこらば、修行し参学すべし。しかあらずは、しばらくやむべし。むかしより法のうるほひなきことをうらみよ。
又、読経 念仏等のつとめにうるところの功徳を、なんぢしるやいなや。ただしたをうごかし、こゑをあぐるを仏事功徳とおもへる、いとはかなし。仏法に擬するにうたたとほく、いよいよはるかなり。又、経書をひらくことは、ほとけ頓漸(とんぜん)修行の儀則ををしへおけるを、あきらめしり、教のごとく修行すれば、かならず証をとらしめんとなり。いたづらに思量念度(しりょうねんど)をつひやして、菩提をうる功徳に擬せんとにはあらぬなり。
おろかに千万誦(じゅ)の口業(くごう)をしきりにして、仏道にいたらんとするは、なほこれながえをきたにして、越にむかはんとおもはんがごとし。又、円孔(えんく)に方木(ほうぼく)をいれんとせんにおなじ。文(もん)をみながら修するみちにくらき、それ医方をみる人の合薬をわすれん、なにの益かあらん。口声(くしょう)をひまなくせる、春の田のかへるの昼夜になくがごとし、つひに又益なし。
いはんやふかく名利にまどはさるるやから、これらのことをすてがたし。それ利貪(りとん)のこころはなはだふかきゆゑに。むかしすでにありき、いまのよになからんや。もともあはれむべし。ただまさにしるべし、七仏の妙法は、得道明心の宗匠(しゅうしょう)に、契心証会(かいじんしょうえ)の学人あひしたがうて正伝すれば、的旨(てきし)あらはれて稟持(ぼんじ)せらるるなり、文字習学の法師のしりおよぶべきにあらず。しかあればすなはち、この疑迷をやめて、正師のをしへにより、坐禅辨道して諸仏自受用三昧を証得すべし。」

「私が日本に恋をした理由」& 本堂回り、2019年1月16日&18日

「弁道話講義⑨」、2018年12月20日

資料:
諸佛如來ともに妙法を單傳して、阿耨菩提を證するに、最上無爲の妙術あり。これただ、ほとけ佛にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり。この三昧に遊化するに、端坐参禪を正門とせり。この法は、人々の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、證せざるにはうることなし… 
もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる…
しるべし、たとひ十方無量恒河沙数(むりょうごうがしゃすう)の諸仏、ともにちからをはげまして、仏智慧をもて、一人坐禅の功徳をはかり、しりきはめんとすといふとも、あへてほとりをうることあらじ。

神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って、第七日に休まれた。『創世記1・31~2・2』

いまこの坐禅の功徳、高大なることをききをはりぬ。おろかならん人、うたがふていはん、
「仏法におほくの門あり、なにをもてかひとへに坐禅をすすむるや。」
しめしていはく、「これ仏法の正門なるをもてなり。」

とふていはく、「なんぞひとり正門とする。」
しめしていはく、「大師釈尊、まさしく得道の妙術を正伝し、又 三世の如来、ともに坐禅より得道せり。このゆゑに正門なることをあひつたへたるなり。しかのみにあらず、西天東地の諸祖、みな坐禅より得道せるなり。ゆゑにいま正門を人天にしめす。」

原(たず)ぬるに、夫(そ)れ道本円通(どうもとえんづう)、争(いか)でか修証(しゅしょう)を仮(か)らん。宗乗(しゅうじょう)自在、何ぞ功夫(くふう)を費(ついや)さん。況んや全体逈(はる)かに塵埃(じんない)を出(い)づ、孰(たれ)か払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。大都(おおよそ)当処(とうじょ)を離れず、豈に修行の脚頭(きゃくとう)を用ふる者ならんや。然(しか)れども、毫釐(ごうり)も差(しゃ)有れば、天地懸(はるか)に隔り、違順(いじゅん)纔(わず)かに起れば、紛然として心(しん)を(の)失す。直饒(たとい)、会(え)に誇り、悟(ご)に豊かに、瞥地(べつち)の智通(ちつう)を獲(え)、道(どう)を得、心(しん)を(の)明らめて、衝天の志気(しいき)を挙(こ)し、入頭(にっとう)の辺量に逍遥すと雖も、幾(ほと)んど出身の活路を虧闕(きけつ)す。矧(いわ)んや彼(か)の祇薗(ぎおん)の生知(しょうち)たる、端坐六年の蹤跡(しょうせき)見つべし。少林の心印を伝(つた)ふる、面壁九歳(めんぺきくさい)の声名(しょうみょう)、尚ほ聞こゆ。古聖(こしょう)、既に然り。今人(こんじん)盍(なん)ぞ辦ぜざる。所以(ゆえ)に須(すべか)らく言(こと)を尋ね語を逐ふの解行(げぎょう)を休すべし。須らく囘光返照(えこうへんしょう)の退歩を学すべし。身心(しんじん)自然(じねん)に脱落して、本来の面目(めんもく)現前(げんぜん)せん。恁麼(いんも)の事(じ)を得んと欲せば、急に恁麼の事(じ)を務(つと)めよ。
夫れ参禅は静室(じょうしつ)宜しく、飲食(おんじき)節あり、諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪(ぜんなく)を思はず、是非を管すること莫(なか)れ。心意識の運転を停(や)め、念想観の測量(しきりょう)を止(や)めて、作仏を(と)図ること莫(なか)れ。豈に坐臥に拘(かか)はらんや。尋常(よのつね)、坐処には厚く坐物(ざもつ)を(と)敷き、上に蒲団を用ふ。或(あるい)は結跏趺坐、或は半跏趺坐。謂はく、結跏趺坐は、先づ右の足を以て左の(もも)の上に安じ、左の足を右の(もも)の上に安ず。半跏趺坐は、但(ただ)左の足を以て右の(もも)を圧(お)すなり。寛(ゆる)く衣帯(えたい)を繋(か)けて、斉整(せいせい)ならしむべし。次に、右の手を左の足の上に安(あん)じ、左の掌(たなごころ)を右の掌の上に安ず。兩(りょう)の大拇指(だいぼし)、面(むか)ひて相(あい)拄(さそ)ふ。乃(すなわ)ち、正身端坐(しょうしんたんざ)して、左に側(そばだ)ち右に傾き、前に躬(くぐま)り後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ。耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す。舌、上の腭(あぎと)に掛けて、脣歯(しんし)相(あい)著け、目は須らく常に開くべし。鼻息(びそく)、微かに通じ、身相(しんそう)既に調へて、欠気一息(かんきいっそく)し、左右搖振(ようしん)して、兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)して、箇(こ)の不思量底を思量せよ。不思量底(ふしりょうてい)、如何(いかん)が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。
所謂(いわゆる)坐禅は、習禅には非ず。唯、是れ安楽の法門なり。菩提を究尽(ぐうじん)するの修證(しゅしょう)なり…
何ぞ自家(じけ)の坐牀(ざしょう)を抛卻(ほうきゃく)して、謾(みだ)りに他国の塵境に去来せん。若し一歩を錯(あやま)らば、当面に蹉過(しゃか)す…『普勧坐禅儀』

夫れ学般若の菩薩は、先ず当に大悲心を起こし、弘(ぐ)誓願を発し、精(たけ)く三昧を修し、誓って衆生を度し、一身の為に独り解脱を求めざるべし。乃ち諸縁を放捨し、万事を休息し身心一如にして、動静間無(へだてな)く、其の飲食を量って、多からず少なからず、其の睡眠を調えて節せず、恣にせず。坐禅せんと欲する時、閑静處(かんじょうしょ)に於いて厚く坐物を敷き、寛(ゆる)く衣帯を繋け、威儀をして齊整(せいせい)ならしめ、然る後、結跏趺坐せよ。先ず右の足を以って、左のももの上に安じ、左の足を右のももの上に安ぜよ。或いは、半跏趺坐も亦た可なり。但左の足を以って、右の足を圧すのみ。次に右の手を以って、左の足の上に安じ、左の掌を右の掌の上に安じ、両手の大拇指の面をもって相拄(あいささ)え、徐徐として身を挙し、前後左右、反覆揺振(はんぷくようしん)して、乃ち身を正しうして端坐せよ。左に傾き右に側(そばだ)ち、前に躬まり後に仰ぐことを得ざれ。腰脊頭頂(ようせきずちょう)骨節をして相拄え、状(かたち)浮屠(ふと)の如くならしめよ。又た身を聳(そび)やかすこと太(はなは)だ過ぎて、人をして気急不安(ききゅうふあん)ならしむることを得ざれ。耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対し、舌は上の顎(あぎと)を拄え、唇歯相著(しんしあいつけ)けしむることを要せよ。目は須らく微(すこ)し開き、昏睡を致すこと免るべし。若し禅定を得れば其の力最勝なり。古え習定の高僧有り、坐して常に目を開く。向(さ)きの法雲円通禅師も亦た、人の目(まなこ)を閉(と)じて坐禅するを訶して、以って黒山の鬼窟と謂えり。蓋(けだ)し深旨(じんし)あり、達者焉(これ)を知るべし。身相既に定まり、気息既に調い、然して後(のち)臍腹(さいふく)を寛放(かんほう)し、一切の善悪都て思量すること莫れ。念起らば即ち覚せよ。之を覚すれば即ち失す。久々に縁を忘すれば、自ら一片と成る。此れ坐禅の要術なり。窃(ひそ)かに謂うに坐禅は乃ち安楽の法門なり。而るに人多く疾を致すは、蓋し用心を善くせざるが故なり…『禅苑清規(長蘆宗賾編)・坐禅儀』

(1)仏法僧を敬うや否や。
(2)善知識を求むるや否や。
(3)菩提心を発悟するや否や。…
(118)一生の事辨ずるや否や。
(119)大自在を得るや否や。
(120)大涅槃を証するや否や。『禅苑清規・一百二十問』