冬安居の報告&春以降の講演の告知、2018年2月16日
3月
26日(月) 京都府 宮津市 智源寺 13:30~15:00: 「学道用心集」(最終回)。
4月
1日(日) 群馬県 安中市 長伝寺で講演。
5日(木) 東京都 日本橋 Kandy 15:00~17:00 “Sex&Money” 藤田一照師と「性」について対談。申し込み:kandyアッとvkj.co.jp 件名:「法話会」
6日(金) 東京都 南青山 vedaで、19:30~21:00 ワークショップ。
7日(土) 東京都 南青山 vedaで、6:45~7:45 「ただ坐る」。
7日(土) 東京都 新宿 朝日カルチャー新宿教室 17:00~18:30 坐禅 19:00~20:30 永井均先生と対話。
8日(日) 神奈川県 鎌倉市 9:15~11:45 「いのちの学校」。
8日(日) 神奈川県 藤沢市 朝日カルチャー湘南教室 13:00~14:30 講義。
14日(土)兵庫県 養父市 永源寺 14:00~ 講演。
15日(日)鳥取市 NHK文化センター アクティビル7階 10:30~12:00 講演「迷いながら どう生きるか」。
5月
18日(金) 神戸経済同友会の総会で講演。
6月
9日(土) 兵庫県 豊岡市 国際交流協会 13:00~ ウィルチコ・フロリアン神主と講演。
10日(日) 大阪市 朝日カルチャーセンター中之島教室 11:00~12:30 講義 13:15~14:45 椅子禅。
17日(日) 名古屋市 朝日カルチャーセンター名古屋教室 13:00~14:30 講義 15:00~16:30 椅子禅。
23・24日(土・日) 新温泉町 西光寺 永代経で講演(三回)。
7月
12日(木) 東京都 日本橋 Kandyで、15:00~17:00 “Sex&Money” 藤田一照師と「お金」について対談。申し込み:kandyアッとvkj.co.jp 件名:「法話会」
19・20日(木・金) 長崎県 佐世保市 洪徳寺の大般若会で講演(二回)。
21日(土) 東京都 中野サンプラザ 日本仏教鑽仰会 で講演:13:30~15:30 「親鸞と道元」
9月
23日(日) 兵庫県 芦屋市 仏教会館 で 10:00 ~ 12:00 公開仏教講座。
10月
3日(水) 徳島県 18:30 ~ 20:30 「禅をきく会」で講演。
5・6・7日 新潟県下越地域(新潟市・胎内市・五泉市)の各会場で「巡回仏教講演会」。
18日(木) 東京都 日本橋 Kandyで、15:00~17:00 “Sex&Money” 藤田一照師と「死」について対談。申し込み:kandyアッとvkj.co.jp 件名:「法話会」
30日(火) 鳥取県 米子市 総泉寺 9:30 ~ 15:30「禅の集い」で講師。
11月
6日(火) 長野県 北信越管区教化センター布教研修会で講演。
8日(木) 兵庫県養父市 とが山学園で 10:00~11:30 講演。
21日(水) 兵庫県危険物安全協会会長研修会で講演。
25日(日) 福井県小浜市国際交流協会マリンカの会で講演。
学道用心集 第八 禅僧の行履の事@智源寺、2018年2月10日
右、仏祖より以来(このかた)、直指(じきし)単傳(たんでん)、西乾(さいけん)四七、東地(とうち)六世(ろくせ)、絲毫(しごう)を添(そ)えず、一塵(じん)を破(やぶ)ること莫(な)し。
衣(え)は曹渓(そうけい)に及び、法は沙界(しゃかい)に周(あま)ねし。
時に如来の正法眼蔵、巨唐(きょとう)に盛んなり。其(そ)の法の體(てい)為(た)らくは、摸索(もさく)するも得ず、求覓(ぐみゃく)するも得ず。見處(けんじょ)に知(ち)を忘(ぼう)じ、得時(とくじ)に心を超(こ)ゆ。
面目(めんもく)を黄梅(おうばい)に失(しつ)し、臂腕(ひわん)を少室(しょうしつ)に断(だん)ず。
髄(ずい)を得、心(しん)を飜(ひるが)えして風流(ふうりゅう)を買ひ、拜(はい)を設(もう)け、歩(ほ)を退(しりぞ)いて便宜(べんぎ)に墮(お)つ。
然(しか)れども、心に於ても身に於ても、住(じゅう)するなく著(じゃく)する無(な)し。留(とどま)らず滞(とどこお)らず。
趙州(じょうしゅう)に僧問(と)う、狗子(くす)に還(かえ)つて仏性(ぶっしょう)ありや無なしやと。州云く、無(む)と。
無字の上に於いて、擬量(ぎりょう)し得てんや、擁滞(ようたい)し得てんや。全く巴鼻(はび)なし。
請う試みに手を撒(さっ)せよ。且(しば)らく手を撒して看よ。
身心は如何、行李(あんり)は如何ん、生死は如何ん、仏法は如何ん、世法は如何ん、山河(さんが)大地、人畜(にんちく)家屋(かおく)、畢竟(ひっきょう)如何ん。
看来(みきた)り看(み)去って、自然(じねん)に動静(どうじょう)の二相(にそう)了然(りょうねん)として生ぜず。
此の不生(ふしょう)の時、是れ頑然(がんねん)にあらず、人之れを證する無く、之れに迷うもの惟(こ)れ多し。
参禅の人、且(しば)らく半迷(はんめい) 〈*途(と)〉にして始めて得たり、全迷 (ぜんめい)〈*途(と)〉にして辞(じ)すること莫れ。祈祷(きとう)、祈祷。
自受用三昧
身心脱落
眼横鼻直
柔軟心
狐と猫―百丈野狐・南泉斬猫の公案を巡って(ネルケ無方@安泰寺)、2018年1月31日
【正法眼蔵随聞記1-6】
或時、奘問て云く、如何是不昧因果底道理(如何か是れ不昧因果底の道理)。
師云く、不動因果なり。
云く、なんとしてか脱落せん。
師云く、因果歴然なり。
云く、かくの如くならば因果を引起すや、果因を引起すや。
師云く、總てかくの如くならば、かの南泉の猫兒を斬るがごとき、大衆既に道ひ得ず、便ち猫兒を斬却しおはりぬ。後に趙州、頭に草鞋を戴きて出たりし、亦一段の儀式なり。
亦云く、我れ若し南泉なりせば、即ち云べし、道ひ得たりとも便ち斬却せん、道ひ得ずとも便ち斬却せん、何人か猫兒をあらそふ、何人か猫兒を救ふと。大衆に代て云ん、既に道ひ得ず、和尚猫兒を斬却せよと。亦大衆に代て云ん、和尚只一刀兩段を知て一刀一段を知らずと。
奘云く、如何是一刀一段。
師云く、猫兒是。
亦云く、大衆不對の時、我れ南泉ならば、大衆既に道不得と、云て便ち猫兒を放下してまじ。古人の云く、大用現前して軌則を存ぜずと。
亦云く、今の斬猫は是便ち佛法の大用現前なり、或は一轉語なり。若し一轉語にあらずば山河大地妙淨明心と云べからず。亦即心是佛とも云べからず。便ち此一轉語の言下にて猫兒即佛身と見よ。亦此詞を聽て學人も頓に悟入すべし。
亦云く、此斬猫兒即是佛行なり。喚で何とか云べき。
云く、喚で斬猫と云べし。
奘云く、是れ罪相なりや否や。
云く、罪相なり。
奘云く、なにとしてか脱落せん。
云く、別別無見なり。
云く、別解脱戒とはかくの如を云か。
云く、然り。
亦云く、たヾしかくの如きの料簡、たとひ好事なるとも無らんにはしかじ。
奘問て云く、犯戒の語は受戒己後の所犯を云か、唯亦未受己前の罪相をも犯戒と云べきか。如何ん。
師答て云く、犯戒の名は受後の所犯を云べし。未受己前所作の罪相をば只罪相罪業と云て犯戒と云べからず。
問て云く、四十八輕戒の中に未受戒の所犯を犯と名くと見ゆ。如何ん。
答て云く、然らず。彼は未受戒の者、今ま受戒せんとする時、所造のつみを懺悔するに、今の戒にのぞめて、前に十戒等を授かりて犯し、後ち亦輕戒を犯ずるをも犯戒と云なり。以前所造の罪を犯戒と云にはあらず。
問て云く、今受戒せんとする時、まへに造りし所の罪を懺悔せんが爲に、未受戒の者に十重四十八輕戒を敎へて讀誦せしむべしと見へたり。亦下の文に、未受戒の前にして説戒すべからずと。此の二處の相違如何。
答て云く、受戒と誦戒とは別なり、懺悔のために戒經を誦するは猶是念經なり。故に末受者戒經を誦せんとす。彼が爲に經を説かんこと咎あるべからず。下の文に、利養の爲のゆゑに未受戒の前にして是を説ことを制するなり。今受戒の者に懺悔せしめん爲には最も是を敎ゆべし。
問て云く、受戒の時は七逆の受戒を許さず。先の戒の中には逆罪も懺悔すべしと見ゆ。如何ん。
答て云く、實に懺悔すべし。受戒の時、許さヾることは、且く抑止門とて抑ゆる義なり。亦上の文は、破戒なりとも還得受せば淸淨なるべし。懺悔すれば淸淨なり。未受に同からず。
問て云く、七逆すでに懺悔を許さば、亦受戒すべきか。如何ん。
答て云く、然あり。故僧正自ら所立の義なり。既に懺悔を許す、亦是受戒すべし。逆罪なりとも、くひて受戒せば授くべし。況や菩薩はたとひ自身は破戒の罪を受とも、他の爲には受戒せしむべきなり。
典座教訓(9回目の輪講・正覚の当番)、2018年1月29日
同年7月、山僧天童に掛錫(かしゃく)す。時に彼の典座來りて得相見して云く、「解夏了(かいげりょう)に典座を退き、郷に歸り去らんとす。適(たまた)ま兄弟(ひんでい)の老子が在りと説くを箇裏に聞く。如何ぞ來りて相見せざらんや」と。山僧喜踊(きゆう)感激して、佗を接して説話(せった)するの次で前日舶裏に在りし文字辨道の因縁を説き出す。
典座云く、「文字を學ぶ者は、文字の故を知らんことを爲(ほっ)す。辨道を務る者は、辨道の故を(冖+月)(うけが)わんことを要す」と。
山僧佗に問う、「如何にあらんか是れ文字」。座云く、「一二三四五」。
又問う、「如何にあらんか是れ辨道」。座云く、「(彳+扁)界會て藏さず」と。
其の餘の説話(せった)、多般(たはん)有りと雖も、今緑せざる所なり。
山僧聊(いささ)か文字を知り、辨道を了するは、及ち彼の典座の大恩なり。
向來一段の事、先師全公に説似す。公甚だ隨喜するのみ。
山僧後に雪竇の頌有り僧に示して「一字七字三五字。萬像窮め來るに據(よ)りどころ爲(あら)ず。夜深(ふ)け月白うして滄溟に下り、驪珠(りじゅ)を捜り得るは多許(そこばく)か有る」と云を看る。
前年彼の典座の云ふ所と、今日雪竇の示す所と、自ら相ひ符合す。彌(いよいよ)知る彼の典座は是れ眞の道人なることを。
然あれば則ち從來看る所の文字は、是れ一二三四五なり。今日看る所の文字も、亦た六七八九十なり。
後來の兄弟(ひんでい)、這頭從り那頭を看了し、那頭從り這頭を看了す。恁(かくのごとき)功夫を作さば、便ち文字上の一味禪を了得し去らん。
若し是の如くならずんば、諸方の五味禪の毒を被りて、僧食を排辨するに、未だ好手たることを得(う)べからざらん。
誠に夫れ當職は先聞現證(せんもんげんしょう)。眼に在り耳に在り。文字有り道理有り。正的(しょうてき)と謂つべきか。
縱(すで)に粥飯頭の名を忝(かたじけの)うせば、心術も亦た之に同ずべきなり。
典座教訓(8回目の輪講・恵光の当番)、2018年1月28日
又嘉定(かてい)十六年、癸未(きび)、五月中。慶元の舶裏(はくり)に在りて、倭使頭説話(せつた)次、一老僧有り來。年六十許歳(ばかり)。一直に便ち舶裏に到り、和客に問ふて倭椹(わじん)を討(たず)ね買う。
山僧他を請(しょう)して茶を喫せしむ。佗の所在を問へば、便ち是れ阿育王山の典座なり。
佗云く、「吾は是れ西蜀の人なり。郷を離るること四十年を得たり。今年是れ六十一歳。向來粗ぼ諸方の叢林を歴(へ)たり。先年權(か)りに孤雲裏に住し、育王を討ね得て掛搭(かた)し、胡亂に過ぐ。
然あるに去年解夏(かいげ)了(りょう)。本寺の典座に充てらる。明日五日なれども、一供(く)渾(すべ)て好喫無し。麺汁を做(つく)らんと要するに、未だ椹(じん)の在らざる有り。仍(よっ)て特特として來る。椹を討ね買いて、十方の雲衲に供養せんとす」と。
山僧佗に問ふ、「幾ばく時か彼(かしこ)を離れし」。座云く、「齋了(さいりょう)」。
山僧云く、「育王這裏を去ること多少の路か有る」。座云く、「三十四五里」。山僧云く、「幾ばく時か寺裏に廻り去るや」。座云く、如今(いま)椹を買ひ了らば便ち行(さら)ん」。
山僧云く、「今日期せずして相ひ會し、且つ舶裏に在て説話(せった)す。豈に好結縁(こうけつえん)に非ざらんや。道元典座禪師を供養せん」。
座云く、「不可なり。明日の供養、吾れ若し管せずんば、便ち不是(ふぜ)にし了(おわ)らん」。
山僧云く、「寺裏何ぞ同事の者齋粥を理會する無からんや。典座一位、不在なりとも、什麼(なん)の欠闕(かんけつ)か有らん」。
座云く、「吾れ老年に此の職を掌(つかさど)る。及ち耄及(ぼうぎゅう)の辨道なり。何を以て佗に讓る可けんや。又た來る時未だ一夜宿の暇を請はず」。
山僧又典座に問ふ、「座尊年、何ぞ坐禪辨道し、古人の話頭を看せざる。煩く典座に充て、只管に作務す、甚(なん)の好事か有る」と。
座大笑して云く、「外国の好人、未だ辨道を了得せず。未だ文字を知得せざること在り」と。
山僧佗の恁地(かくのごとき)の話を聞き、忽然として發慚驚心(ほつざんきょうしん)して、便ち佗に問ふ、「如何にあらんか是れ文字。如何にあらんか是れ辨道」と。
座云く、「若も問處を蹉過せずんば、豈に其の人に非ざらんや」と。
山僧當時(そのかみ)不會(ふえ)。
座云く、若し未だ了得せずんば、佗時(たじ)後日、育王山に到れ。一番文字の道理を商量し去ること在らん」と。
恁地(かくのごとく)話(かた)り了って、便ち座を起って云く、「日晏(く)れ了(な)ん忙(いそ)ぎ去(いな)ん」と。便ち歸り去れり。


