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覚安の出家得度、2015年2月11日

2012年から安泰寺で安居しているアメリカン人の覚安は四度目の春を前にして、いよいよ出家得度に踏み込みました。写真はこちら:
覚安の出家得度

マイクの電源が入っていなかったため、音声はありません。式の最後の数分間:

安泰寺でダンマパダ(法句経)の輪講:最終章「バラモン」、2015年2月11日

安泰寺では毎冬、広間のストーブを囲んで輪講を行っています。今年のテーマはダンマパダ(法句経)でした。安居の修行者は交代で岩波文庫のテキスト(中村一注「真理の言葉」)を読み、自分で解釈をしてから毎日の生活に照らし合わせています。今日は最終回、「バラモン」についての話でした:

ネットでもダンマパダは読めます。例えば青空文庫にも収められています。
輪講の席で最初はテキストを読み上げ、注釈を述べるだけですから、出だしはやや退屈です:

さて、ここからが勝負:テキストの「バラモン」と自分自身の生活態度を比較した場合、はたしてどうなるのか?
お正月休みの過ごし方から始まります:

ある時とつぜん、両親の口からお墓の相談が・・・
安泰寺の山で「樹木葬」というオプションもあったのに、もったいない!

安泰寺の修行仲間に切磋琢磨されながら、先輩の姿勢に学んでいくというのが修行道場の大前提です。そこではパッとしない先輩であっても、一応立てておきましょう。

仏法の問題は癒しの言葉を語るのではなく、いかに偽りのない実践をするか、です。最近売れている仏教書の話。

寒行托鉢中に、不良おばちゃんに「あんたは幸せか?」と絡まれたエピソード。修行僧といえども、汚ければいいというわけではありません。

ダライ・ラマに聞いてみました:「性欲をどうすればいいか?」
そこからさらに話が脱線して、修行生活の様々な裏事情が表に・・・
愛欲と修行の狭間で苦しむ安泰寺の安居者の話。

「お寺と温泉」って、そんな関係があったのでしょうか。
その話は嘘っぽくても、以外に本当かも?
「切り離せないものを、できれば切ったほうが・・・」

またまた、修行仲間のネタで盛り上がりました。

このあとも話は続きましたが、残念ながらメモリーカードはこの時点でイッパイになってしまいました。

冬の一日摂心、2015年2月10日

本堂をぐるっと、叢林全体で法戦式の慣らし、ついでに本を紹介:「禅の言うとおりにやってみよう」「私が感動したニッポンの文化」「ニッポンを発信する外国人たち」「大学生に語る 資本主義の200年」「MON-ZEN」、2015年2月9日

星覚さんって、どんな人?実は、喫茶店のマスターでもあるのだそうです:
「雲水喫茶」
ベルリンにある星覚さんの禅道場「UNDO」のフェイスブックはこちら:
facebook.com/undoinberlin

「Monzen」はドイツの映画通の間、かなり話題になりました。
この映画の監督は大の日本好きで、他にも日本を題材とした作品を作っています:
ドーリス・デリエ (ウィキペディア)
実は「Monzen」でカメラマンを勤めていたWerner Penzelという日本在住のドイツ人は去年、安泰寺で新たな映画を撮り、今年が来年から映画館で上映される予定です。日本でも見れると思います。
こちらにその映画の撮影風景がご覧になれます:

冬の夕方、本堂の中と外・安泰寺の首座(しゅそ)と辨事(べんじ)は法戦式の練習中、2015年2月8日

英語でトークと問答:ネルケ無方がインターネット禅堂 “Treeleaf” の坐禅会に参加

先月、安泰時の住職はバーチャルな禅堂 Treeleaf Zendo (木之葉禅堂)に招待され、坐禅のあとにトークをし、参加者とネットを通じて問答を交わしました。30分の坐禅に続き、90分の英語の話です:

接心開けの放参の朝、無心さんの写真をアップ、2015年2月6日

去年の春に安泰寺を訪れていたオーストラリアの無心さんの写真をアップしました:
Sitting Duck

今から三年前に書いた文章の続きです:

 四大(しだい)の性(しょう)おのずから復(ふく)す。子の其の母を得(う)るがごとし、火は熱(ねっ)し風は動揺(どうよう)、水は湿(うるお)い地は堅固(けんご)、眼(まなこ)は色(いろ)、耳は音声(おんじょう)、鼻は香(か)、舌は鹹酢(かんそ)。(参同契)

 世の嬰児(ようじ)の五相完具(ごそうがんぐ)するが如し。不去不来(ふきょふらい)、不起不住(ふきふじゅ)。婆婆和和(ばばわわ)、有句無句(うくむく)、ついに物を得ず、語未(ごいま)だ正しからざるが故に。(宝鏡三昧)

 私の三人の子供は 「赤ちゃんに優しい病院」に生まれました。「赤ちゃんに優しい病院」は日本を含む先進国では意外と少ないです。二〇〇〇年の時点では世界中で一万五千の病院がUNICEFのWHOの認定を受けていましたが、「先進国」といわれている三十ヶ国には合わせて二六二ヶ所の赤ちゃんに優しい病院しかありません。二〇〇〇年のリストにはフィリピンの病院が一二五〇、中国は六〇〇〇も載っていますが、日本の病院が当時十四ヶ所しかありませんでした。幸いブレストフィーディング(母乳による育児)は今日本で見直されつつあり、現在で日本の「赤ちゃんに優しい病院」は四十ヶ所を超えました。
 「赤ちゃんに優しい病院」の条件は何か?
 WHOの規定は全部で十ケ条ありますが、たとえば、
 「母親が分娩後、三十分以内に母乳を飲ませられるように援助すること」
 「医学的な必要がないのに母乳以外のもの、水分、糖水、人工乳を与えないこと」
 「母子同室にする。赤ちゃんと母親が一日中二十四時間、一緒にいられるようにすること」
 「赤ちゃんが欲しがるときに、欲しがるままの授乳を進めること」
 「母乳を飲んでいる赤ちゃんにゴムの乳首やおしゃぶりを与えないこと」などです。

 上の二人の子供の場合、私は出産に立ち会いました。子供が生まれてすぐ、赤ちゃんの体を洗うこともなく、まず母親の胸の上に置くのです。こうして母と子はまずさぐり合い、一緒にしばらく休みます。そして始めて母乳を飲ませます。そのあとに赤ちゃんの体は拭かれたり、体重は量れたりします。赤ちゃんがまず大きな声で「おぎゃー」と泣きわめくというイメージを持っていましたが、意外と赤ちゃんは泣かないのです。心配になっていた私を看護師が諭しました。
 「大丈夫。お母さんのお腹の上に置いたら、安心して泣かないのが普通」

 二月に新しく誕生した次男「泉(いずみ)」は二〇〇〇グラムにも満たない未熟児で、緊急手術で生まれたので、母子同室も分別後すぐの授乳も不可能でした。息子と妻は別々の階で寝かされていて、それぞれ点滴や人工呼吸、麻酔のチューブが身体につけられていました。三日目から妻がようやく歩けるようになって、初めて保育器の中の子供に面会できました。最初のころの赤ちゃんはしんどそうで、医師も気をもんでいたようです。出血しやすい体質のため、一時期は輸血の必要もありました。しかし、日にちがたつにつれて、泉はすくすく元気になり、母乳デビューもはたせました。
 妻は約一週間で退院できましたが、泉は一ヶ月くらいNICUで養育しなければなりませんでした。ですから、三週間の間は母乳を届けに病院に通わなければならなかったのです。天気の日でも車で片道一時間、大雪の日などでは二時間もかかる道のりなので、一日に一回しか往復できません。 それでは、どうして赤ちゃんのために母乳を届けるかといいますと、搾乳(さくにゅう)して、冷凍パックにいれてもって行くのです。昼ごろの面会のときだけ、直接に与えられるのです。
 病院いは最先端の搾乳機(さくにゅうき)はおいてありますが、自宅ではどうしたらよいか?退院のときに悩んでいた妻を、私は安心させようと思いました。
 「大丈夫だ、俺は安泰寺のヤギ係りだったよ。四つんばいになってもらえば、なんぼでもしぼってやる。俺は名人さ」
 相手にされませんでした(当然です)。妻はインターネットで携帯用の搾乳機を購入しました。一日二十四時間、いつでもどこでも使えるタイプです。
 病院はどうしてそこまで母乳にこだわるのか。医療技術の進歩に伴い、未熟児に最適な、先端のミルクフォーミュラがあってもおかしくありません。いや、フォーミュラがあるに違いないと思いますが、病院はあえて「母乳を持ってきてください」というのに、理由があるはずです。

 さて、そこで今回の仏教参究です。参同契と宝鏡三昧というのは曹洞宗の多くのお寺で毎日の朝課で読誦される二つのお経です。セットで読まれることが多いようです。「お経」といっても、お釈迦さまが説いたわけではありません。中国・朝鮮半島や日本に伝わっている大乗仏教の経典はすべてそうですが、釈尊の直伝ではないのです。そのために「大乗非仏説」といって、大乗の経典は本当の仏教ではないと批判している人もいます。そこでまず大乗仏教の弁解を言わせてもらいますが、釈尊ではなくても、目を覚ますことはできるはずです。そのときに見えたものを言語化もできます。サンスクリットやパリ語ではなくてもいいはずです。ですから、お経はこれからも生産されていいものです。現に、曹洞宗には作成してから百数年しか経っていない「修証儀」という最新のお経もあります。これからは英語やドイツ語にもスートラが作成されるかもしれません。それでいいのです。
 多くの経典の場合、その作者名は分かりません。最初のブロードウェイ・ミュージカルとも評されている「法華経」もそうです。釈尊がなくなってから、だいぶ後に作られた分厚いお経ですが、誰がいつごろ、どういうふうに作成したかは不明です。
 参同契と宝鏡三昧の場合は違います。作者ははっきりしています。石頭希遷(700~790)と洞山良介(807~869)です。二人とも禅が形式主義に陥る前の唐代の禅僧ですから、原文は中国語です。お経も短く、参同契は二二〇文字、宝鏡三昧は三七六文字。洞山は石頭の曾孫弟子に当たりますが、石頭の表現を洞山がさらに高めたという人もいますが、参同契にしても宝鏡三昧にしても、その内容の解釈には悩まされます。

 四大(しだい)の性(しょう)おのずから復(ふく)す。子の其の母を得(う)るがごとし、火は熱(ねっ)し風は動揺(どうよう)、水は湿(うるお)い地は堅固(けんご)、眼(まなこ)は色(いろ)、耳は音声(おんじょう)、鼻は香(か)、舌は鹹酢(かんそ)。
 (地・水・火・風の四大元素は自ずと、それらの性質に従い、それらの働きをする。火は熱い。風はつかみどこがない。水は潤う。地は硬い。同じように、目は形を見、耳は音を聞く。鼻はにおいを嗅ぎ、舌は味をみわける。それらの働きは、赤子がその母を見分け聞き分けし、母と子が自ずと求め合っているようなことだ。)

 「誰一人もいない深い山の奥で木が倒れたときには、音がするか、音がしないか」とようなことが大真面目に議論されるのは哲学の世界。音は空気の震度なのか、主体の意識なのか。
 「ぽつん、ぽつん」という雨の音を聞いているのは、窓の外で聞いているのか、耳で聞いているのが、意識の中で聞いているのか、というのも赤ちゃんには通用しない問題のはずです。なぜならば、赤ちゃんはその「ぽつんぽつん」という音になりきっているからです。「窓の外の、雨の音を、鼓膜が受け止めて、脳神経のシナプスの働きによって、私が意識している」といった、小難しいことを赤ちゃんは考えたりしません。

 世の嬰児(ようじ)の五相完具(ごそうがんぐ)するが如し。不去不来(ふきょふらい)、不起不住(ふきふじゅ)。婆婆和和(ばばわわ)、有句無句(うくむく)、ついに物を得ず、語未(ごいま)だ正しからざるが故に。
 (世の中の赤ちゃんはみんなそうだ。五感はちゃんと備わっている。主体と客体が行き来したり、インプットによってアウトプットが起こるというような関係が成立つ以前に、ちゃんと機能している。「ばばわわ」という赤ちゃん言葉は、言葉になっていなくても、物事を分析することにいたっていなくても、[だからこそ母親には的確に伝わる])

 赤ちゃんと大人と、どちらがだまされやすいか。
 パソコンの画面に向かって、バーチャルな「リアリティー」の中で浮き沈みし、窓の外の「ぽつんぽつん」という音すら聞こえてこなくなった大人。ファーストフードで間に合わせている大人。人と自分を給料で比べている大人。人生を数値に置き換えている大人。赤ちゃんの鋭い感覚を見失っている大人。
 赤ちゃんはそういう大人にはだまされない。

 自身の貧富を顧みず。偏(ひとえ)に吾子の長大ならんことを念ふ。
 自の寒きを顧みず、自の熱きを顧みず、子を蔭(おほ)ひ子を覆(おほ)ふ。
 以て親切切切の至りと爲す。
 其の心を發(おこ)す人、能く之を識る。其の心に慣ふ人、方に之を覺る者なり。
 (典座教訓)

「喜心・老心・大心」というのが僧堂の台所に立つ典座の三つの心です。上の言葉は道元禅師の典座教訓の「老心」、つまり親心の説明からの引用です。

「親は自分の財産を省みることなく、ただただわが子の成長を願うのだ。暑い時は、自分がいくら熱くても、子を自分の陰に置く。寒い時は、自分がいくら寒くても、子を自分の身体で抱きしめる。これを「親切、切々のいたり」という。老心を起こした人なら、この気持ちがよく分かる。老心を実践している人はみな、親の気持ちに気づく。」

 大乗の菩薩は家族などへの執着を断ち切るというのではなく、むしろその執着の環を無限に広げることを目標としていると私は確信します。菩薩の修行は「スキンシップ」から始まらなければならないのです。「スキンシップ」という言葉は、一九五三年に開催されたWHOのセミナーであるアメリカ人が使っていたのは最初だそうですが、「分類上は和製英語になっている」(ウィキペディア)。英語には「スキンシップ(Skinship)」という言葉は元々ありません。ところが、今は「スキンシップ」という言葉は逆輪入され、英語のウィキペディアにものっています。どうやら「母親と子供が身体的な接触」というよりも「ハダカの付き合い」という意味で使われること多いようですが、“Skin(はだ)”と“Kinship(親族)”を合わせてできたこの言葉のそもそもの意味は、肌で触れ合うからこそ親子の絆が育ち深まる、ということでしょう。英語でも、いまやスキンシップをテーマにした赤ちゃんや子育てのサイトやブログがあることを知りました。ある英語のブログでは母親と赤ちゃんの絆(“Bond”)を作るために、母乳栄養のほかに“Co-sleeping”や“Family bed”は勧められています。日本と違い、西洋に親が子供と同じ蒲団で寝るという週間はありませんが、もっと良い親になるために、日本から“Skinship”を見習いなさい、というのです。
 西洋の親は早い時点から赤ちゃんを親の寝室から離し、子供が夜中に泣き出して放置することは昔よくあったことです。小さい子供を寝かすときも、お母さんは「おやすみ」といって電気を消すだけで部屋を後にすることが決して珍しくありません。子供が寝るまで一緒に蒲団やベッドに入るという習慣はありません。子供が勝手に泣き寝入りすればいい、という考えです。私のドイツの家族もそうです。上の子供がまだ二歳と一歳だったころ、実家に帰ったことがあります。ドイツの父親に孫の顔を見せるためでもあるのです。ところが、子どもが寝てから父親と話をしているときに、妻は絶えず子供部屋から泣き声が聞こえてこないかと、聞き耳を立てていました。会話に参加しない妻をみて、父親は笑っていました。
 「子供が泣き出したって、どうせいずれは泣き疲れる。そして再び寝付くだけだよ。ほっておけ。」
 子供はほっておいた方が楽だし、ほっておかなければ親の「プライベート」な時間は全くなくなるというのです。
 昔のドイツでは赤ちゃんを檻のような「赤ちゃんベッド」に入れたり、外出の時はベビーカーに入れて連れて行くのが普通だったので、親と子供の体が触れ合うことはあまりありませんでした。「だっこ紐」がはやりだしたのは、ごく最近です。そもそも、近隣の子供をベビーシッターとして雇い、親だけで外出する人も珍しくありません。そのくせ大人になると、欧米人は公の場でもやたら異姓への接触をもとめ、手をつなぐのはいいとしても人前でハッグやキッスまでしている姿に多くの日本人は違和感を感じているのではないでしょうか。ひょっとしたら、それは欧米人の多くが子供の頃に肌で感じ得なかったスキンシップを大人になって、異姓に求めているだけのでは、と私が思うこともあります。
 どうして西洋で今まで「スキンシップ」をあまり大事にしてこなかったのでしょうか。早い時点から「個人の確立」を強調しているあまりではないかと思います。つまり、歩きもできないような赤ちゃんですら、なるべく早く「独立」させて、親に極力頼らさせないというのです。しかし、赤ちゃんから「個の確立」を期待しても、無理があります。逆に、思い切り親子の絆を感じさせてからではないと、大人になっても「自信」をもった生き方はできないと思います。一般社会でも個人の独立と強調しすぎるあまり、個々人と孤立させてしまう危険を感じます。仏教の教えでは、縁起でしか成り立っていないこの世の中では完全な「個の確立」は最初から甚だしい幻想です。
 私自身も「ほって置かれた」という子どものころ記憶は今も根強く残っています。母は私が七歳の時になくなって、父は再婚しませんでした。しかし、まだ三十代後半だった彼が異性に惹かれていないわけもなく、いつもガールフレンドの一人くらいはいたようです。ある日曜日の朝のことです。前の夜遅くまで出かけていた父より、私と二人の妹が早く目を覚ましてしまいした。それぞれの寝室からリビングに来ると、そこには持ち主の知らないブラが脱ぎ捨てられていました。そして昼前になると、遅れた朝食で新しいガールフレンドと気まずい初顔合わせになりました。
 「あなたたちはだれなの?」
 ・・・・・・。
 今から考えると「異常」としかいえないこの風景は当時の私子供たちにとっていたって「普通」でした。父親といえども、父は個人として独立し、好きな女性とデートするのは彼の自由だと、私たち子供も考えていました。親を独占したいと気持ちはどの幼い子供も持って入るのですが、それができないというきびしい現実をこんな形で早い時点から学びました。
 私の育った家庭はある意味では特殊かも知れませんが、欧米人はたいがい親子の絆より、愛し合う男女の絆を大事にしていると思います。子供をいち早く「独立」させようという心理も、ひょっとしてそれと関係しているのではないでしょうか。本当に子供の独立を考えているというより、親が子供と一緒に過ごしている時間を「面白くない時間」「自分の時間ではない」と思っているから、子供から無理に「独立」を要求しているという一面もあると思います。
 別の要因は「性的解放」という六〇年代の終わりころからはやりだした考え方です。自立した男女は「結婚」や「家庭」といった古典的な概念に縛られず、自由に愛し合うべきものだというのは、父の世代では常識になっていました。ただ、その考えの犠牲となるのがじゃまもの扱いされる子供だと、人々は今ようやく気づき始めています。
 「子供に早く自立してほしい、私だって遊びたいし、自分を実現できるチャンスがほしいわけ」
と育児に疲れているといいながら、自分のブログにつぶやいているママは日本にもいそうです。子育てを自分の実現として捉えていない大人は残念ながら、今の日本で増えているかもしれません。自立と自己表現をあるだけ大事にしてきた欧米では、いまや逆にSkinshipやBonding(きずな作り)といった育児方法は大流行しています。
 ところが「きずな、きずな」を呪文のように唱えるのもいかがなものでしょうか。スキンシップの行き過ぎで、過保護になりはしないかと心配する人もいるでしょう。それもそのとおりです。愛着はなくてはならないと思いますが、執着であってはいけません。適時に親離れ・子離れができなければ、Bond(絆)がBondage(束縛)になってしまうのです。
 日本ではあまり名前を聞かないですが、ハリール・ジブラーンというレバノン出身の詩人はご存知ありませんか。一九三一年にニューヨークでなくなるまでにはあまり注目を集めなかったようですが、彼の著した『預言者』は一九六〇年代のカウンターカルチャーに愛読され、いまやハリール・ジブラーンはシェークスピアと老子に続く、世界でで三番目に売られている詩人だといわれています。作品の中でももっとも有名になったのは「子供について」という詩ではないでしょうか。一部のみですが、原文とともに拙訳を紹介したいと思います。

Your children are not your children.
They are the sons and daughters of life’s longing for itself.
They come through you but not from you,
And though they are with you, yet they belong not to you.
You may give them your love but not your thoughts.
For they have their own thoughts.・・・[中略]・・・
You are the bows from which your children as living arrows are sent forth.

あなたの子は、あなたの子ではない
いのちがいのちを求める、その息子であり娘である
あなたを通してこの世に出てきたにすぎず、あなたから来たものではない
あなたと共にいるものだが、あなたのものではない
自分の愛を与えても、自分の考えを与えるな
彼らには、自分の考えがあるのだから・・・
あなたは、子供という生きる矢を放つ弓なのだ
 
 赤ちゃんは赤ちゃんとして、幼児は幼児として存分に甘えさせたほうがいいと思いますが、中学生になっても、高校生になっても、親が我が子をなお赤ちゃんのようにかわいがってはいけないでしょう。自主性も主体性も与えないことによって、引き籠もりなってしまった人はどれくらいいるでしょうか。これはおそらく日本でしかみられない現象です。ドイツだったら、部屋から出ない子供は親から引っ張り出され、場合によって勘定され家からたたき出されるのがオチでしょう。安泰寺によく中学生や高校生を連れてくる親がいます。「どうぞ、うちのバカ息子を存分に教育してください。ビシバシでいいから、宜しく・・・」と私に言います。親の気持ちよりここで修行するはずの本人の気持ちが聞きたいのです。
 「君自身はどうなの?君は本気で修行したいと思っているのか。」
 と聞くと、やはり親が子供にかわって答えるのです。
 「もちろん本人も修行したいと思っています、そうですよね○○さん?」
 今までの経験で、自分で電話の受話器を取って参禅の申し込みもせず、バス停から自分の足で山を登ることもなく安泰寺に来た人のなかで、修行が長続きした人はひとりもいません。
 「帰るときは迎えに来ないで、自分の力で家まで帰ってこさせてください」
 と親に説明をしても、
 「いやいや、全くそのとおりだと思うんですが、まだ子供ですし、私たちも心配ですから。やはり帰りの時も迎えに上がります」
 というのです。ああ、それではまるで幼児の保育所への送り迎えではありませんか。
 孤立と束縛の間、自立をも絆をも大事にすることは難しいことです。しかし、その両方のあり方が根本的に問い直されないかぎり、この社会の崩壊が目に見えています。

(ネルケ無方著 「生きるヒント33」より)

2月の第一摂心が終了、2015年2月5日

今から三年前に書いた文章です:

 所謂(いわゆる)老心とは、父母の心なり。譬(たと)へば父母の一子を念ふが若(ごと)し。三寶を存念すること、一子を念ふが如くせよ。
 貧者窮者(ぐうしゃ)、強(あながち)に一子を愛育す。其の志如何ん。外人識らず。父と作り母と作て方(まさ)に之を識る。
(典座教訓)

 二月七日の輪講の席でした。この日のテーマは「知事清規」の中で出てくる末山という尼さんの師家と旅中の雲水の問答でした。
 「尼さんのくせに、どうして仏法が説けるのか」
 という見下った態度の雲水は尼さんに向かって喝する、と本に書いています。
 この「喝」の意味について、安泰寺の修行者はああでもない、こうでもないといろいろ私見を述べるのですが、どうもテンションは低いように感じられました。
 「どうして、そんな緊張感がないのだ。ここでの修行は君たちの生と死の問題に関わっているのではないか」
 みんなを少し驚かせてみようと思って、大きな声で「カーーー!」と叫びました。
 三ヶ月間の勉強会は本気になって経典と向き合わなければ、頭も身体も回転しだす前に、冬が終わってしまうことがよくあるのです。ですから、この時点で私のほうから気合を入れたかったのです。
 ところが、輪講が終わって方丈に戻ったとたん、喝を入れられたのが他でもなく私でした。
 電話が鳴ったのです。
 「ただいまから奥さんの緊急手術にかかるので、ご承諾を」
 ・・・・・・。
 六十キロ離れている総合病院のお医者さんの声は、宇宙のはてから聞こえてくる気がしていました。
 冬の間、家族は一緒に寺で住めません。バス停から4キロ続く参道が除雪されないため、子供がここから学校に通えないからです。たとえ熱を出しても、お医者さんに見てもらうわけにも行かず、万が一のときでも救急車は飛んできません。そういうわけで、久斗山という山のふもとにある集落で四ヶ月間だけ空き家を借りています。そこで妻と二人の子供が冬を越しているのです。山ほど雪は積もりませんが、多いときはやはり二メートルくらいの積雪があります。ふもとの空き家は雪囲いのせいで真昼間でも中は真っ暗です。吹雪いた夜の明け方には、枕元に雪がちらべっていることも珍しくありません。隙間だらけの雨戸から入ってくるのです。
 今年は特別な事情があって、二月の末にネルケ家の第三子が生まれてくるはずでした。ですから、子供の通学に加えて、妻は病院の妊婦検診に行かなければなりませんでした。ところが、記録的な大雪の中、頻繁に病院に通うわけにも行きませんでした。妻は臨月を迎えているときでも、もっぱら雪かきに追われていたようです。
 「あなた、私たちを見捨てるつもりなの?そろそろ屋根の雪下ろしもしないと、家中の扉が開け閉めできなくなってしまうわよ。身重の私には無理だよ、もう・・・・・・」
 そういえば、二月はじめの5日間接心の最中にも、こういう電話がありました。
 「バカをいうなよ、山の上はもっとひどいよ。本堂の屋根は今にも雪の中で消えそうだぜ。約束どおり、十日に山下りるから、それまで辛抱してくれよ。お前も、ちっとは修行しろよ。雪掻きだって、ちょうどいい運動になるんじゃないか」
 愛する家族といえども、甘やかしてはいけないと思っていたのです。
 二月七日、妻は久しぶりに定期検診を受けるのために雪道を走って、県境を越えて総合病院に行っていました。前週も、またその前々週も、大寒波の影響でいけなかったのです。病院ついてすぐ、「ハラを切らなければ・・・」と告がれました。おなかの中の赤ちゃんは育っていないというのです。子供の学校の迎え、入院の準備などのため、明日にしてくださいと妻はいったん戻ろうとするが、「明日までは持たない、今すぐ手術してもぎりぎりの状態だ」。電話を受けとった私が参禅者を連れて、カンジキを履いて山を降りました。学校で子供を向かえて、電車とタクシーを乗り継いで病院に急ぎました。
 妻は酸素マスクの下で寝ていました。声をかけても、麻酔の影響で意識は朦朧していました。赤ちゃんは別の階で、保育器に入れられていました。体中にチューブや電線がつけられていて、かわいそうでした。母も子も、よほどしんどかっただろうな・・・・・・。

 所謂(いわゆる)老心とは、父母の心なり。譬(たと)へば父母の一子を念ふが若(ごと)し。三寶を存念すること、一子を念ふが如くせよ。
貧者窮者(ぐうしゃ)、強(あながち)に一子を愛育す。其の志如何ん。外人識らず。父と作り母と作て方(まさ)に之を識る。
(典座教訓)
 (「老心」と呼ばれている心は、父母の心だ。父母がわが一人子を思うような心だ。仏・法・僧という三宝も、わが子のように大事にしなさい。どんな貧しい人でも、どんな弱い人でも、自分の子を愛してはぐくむではないか。その気持ちは、よそ者にはわからない。父となって、母となって、初めてわかるのだ)

 いまさらながら、後悔している自分の情けなさ・・・。
 仏道のために、親をも、妻子をも捨てるのは出家の大前提です。寺の住職になってから、私は結婚をし子供ももうけましたが、やはり家族を犠牲にした部分が多かったと感じます。一方、家族がいるため、弟子の面倒をおろそかにし、一出家者としての私の仏道修行の実物見本もお粗末なものでした。ましてや、一在家者としての「父母の一子を念ふ」心すら、持ち合わせていませんでした。
 今は妻に代わって、空き家で上の二人の子供と暮らしています。朝ごはんを作ってから子供を学校に送り出す。皿洗いをし、選択をし、雪掻きをする。晩御飯の用意をする。妻と赤ちゃんを見に、他県の病院に通う。子供を学校に迎えにいく。空き家の風呂が使えないため、銭湯につれてから家に帰る。子供が宿題を作っている間に御飯を温める。子供が食べてから歯を磨いて、本読みをして、寝る。そして私は今コタツに入って、「禅生活」の原稿に向かっています。今日も山からビュービューと風が吹き降ろしています。
 冬のピークを迎えているお寺に参禅者4人を残しています。雪は二階の窓まで到達しようとしています。山では雪崩が起きています。先日は水のパイプが破損し、台所に水が来ていないというメールがありました。雪を溶かして料理をしているとか。そして午前中は今でも、毎日輪講が行われているはずです。
 電話で彼らに送った言葉。
 「何はともあれ、怪我をしないように」
 万が一のことがない事を祈るばかりです。
 矛盾だらけの禅生活は今日も続いています。

(ネルケ無方著 「生きるヒント33」より)

澤木老師の音声テープをアップ、2015年1月31日

いのちの働き―知事清規を味わう 、2015年1月29日

無上甚深微妙法 (むじょうじんじん みみょうほう)
百千万劫難遭遇 (ひゃくせんまんごう なんそうぐう)
我今見聞得受持 (がこんけんもん とくじゅじ)
願解如来真実義 (がんげにょらい しんじつぎ)
(開経偈)

衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)
法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)
仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)
(四弘誓願)

 安泰寺では一月から三月までの冬安居(ふゆあんご)の間、起床時間はいつもより一時間遅い四時四十五分となっています。五時から七時までは暁天坐禅(ざぜん)をし、その後は掃除です。みなが掃除をしている間、台所係りの典座は薪ストーブでもちを焼いて、朝食の用意をします。材料は、穴倉で貯蔵しているサツマ芋と里芋、それからジャガイモ、白菜、大根・ごぼうとニンジン、あと腐りかけのかぼちゃもあります。いずれも去年の秋に収穫したものです。
 いつもの安泰寺なら、朝食の後から自給自足のための作務にかかりますが、三月の末まで安泰寺は豪雪に埋もれて、畑や田んぼの作業はできません。その代わり、毎日伝統的な経典の参究もしますし、現代書の勉強をもします。仏教の教学にとまらず、哲学の難問を考えたり、他方では安泰寺で自然エネルギーによる自家発電の可能性を探ったり、不耕起の農法に取り組んでみたりもします。
 安居者の一人ひとりは自分で研究テーマを決めて、期間の最後に五〇ページのリポートを提出しなければなりません。それと平行して行われているのが、毎日の輪講です。日本の内外から集まってくる参禅者は当番制で道元禅師のテキストを読み、現代日本語と英語に訳し、自分の日ごろの暮らしに照らし合わせて発表します。自分の修行の問題点、叢林(そうりん)のあり方の問題点、はてや道元禅師や修行仲間まで批判が及んだりします。その後のディスカッションに火花が飛ぶこともしょっちゅうあります。お互いに遠慮なく意見が言えるというのは安泰寺の特色の一つでしょう。
 安泰寺の冬安居で今もよくテキストとして使われている「永平清規」(えいへいしんぎ)は、道元禅師が永平寺の叢林生活のために定めたルールブックです。その中で特に有名なのは、料理の心構えが丁寧に説明されている「典座教訓」と、雲水のコミュニティーにおけるリーダーたちのロールモデルとしての「知事清規」(ちじしんぎ)です。

 近日中に、内山興正老師がかつて安泰寺で提唱された「知事清規」の改訂版が大法輪閣より出版される予定です:
www.daihorin-kaku.com/book/b193473.html

 動画は安泰寺にある薪ストーブです。

所謂喜心とは、喜悦の心なり。想ふべし我れ若し天上に生れば、樂に著め間(ひま)無く、發心すべからず。修行未だ便(べん)ならず。何かに況や三寶供養の食を作るべけんや。(典座教訓)

Bodhicitta、道心、菩提心。この心が道元禅師にとっていかに大事であったかは、正法眼蔵や典座教訓の数々の言葉で分かります。最初に人生の苦しみに気づいて、何とかしてそこから逃れたいという思いから出発して、「私一人なんてどうなってもいい」という燃えるような志まで、菩提心のスペクトルが広がっています。肝心なのは、それをいかに日常の実践に表すかです。禅寺の場合、監院、園頭や典座のように、大衆のために自分を忘れて、ただただ働くというのも菩提心の表現です。
実際に共同生活していれば、いうほど簡単なことではありません。冬の間、皆が薪ストーブの燃えている部屋で勉強しているときに、典座は一人で寒い台所で立たなければなりません。
 「あいつらがぬくいところでのんびりしているのに、何でオレだけが寒い思いをしなければならないのか」
 と思うときだって、あるのです。春から外での作務が再開しされると、今度は大衆が冷たい雨が降る中で雪囲いを取り外し、屋根に上ってかわらを修理したり、泥まみれになって田端を耕したりします。五月になれば三日連続の田植え、夏になれば炎天下の草刈三昧になります。その時には逆に、典座にあたってない人が思ったりします。
 「典座はいいな。雨も風も当たらないところで、ゆったりのったり・・・。俺たち、死にものぐるいでやっているのに」
 修行をしに山に上った私たちがそう思うのは、菩提心が足りないからです。
 典座教訓の最後に、道元禅師は菩提心を「三心」という形で、三つの要素に分けて分かりやすく説明しています。喜心(きしん)・老心(ろうしん)・大心(だいしん)です。冒頭の引用で、禅師は「喜心」を定義します。

 「喜心とは喜びのこころ。考えてもみなさい。もしあなたが今天国にいたら、楽しみばかりにこころを奪われて、発心することはありえない。修行しようとも思っていなかっただろう。ましてや仏・法・僧の三宝に帰依し、供養し、叢林のために料理をさせていただくなんて、夢のまた夢であったはずだ。」

 この発想が面白いと思います。
 天国ではなくて、この世に生まれてよかった。不平不満の多い今の状況、今の自分でよかった。けっしてモテモテではない、天才頭でもない、だれにもあこがれていない、この自分で。
 なぜなら、ぱっとしないこの自分に酔いようがないからだ。自分に酔っていなければ、目を覚ませる。現に今こうして自分と向き合っているのも、しょぼい人間に生まれたおかげで、天国ではありえなかったはず。真実の道を捜し求められているのも、たいした人間ではないからだ。たいした人間でなくて、よかった。

 ここで思い出すのが、道元禅師の「知事清規」の冒頭に出てくる難陀(なんだ)の話です。難陀は釈尊の義母弟にあたり、釈尊の出家した後に代わって王子即位していたのです。ゆくゆくは釈尊と彼の血を分けた実父、浄飯王(じょうぼんのう)の後を継ぐはずの人物でした。ところが、ある日ブッダとなった釈尊は托鉢をしに、難陀のところにもよります。乞食の応対を召使に任せていた難陀が、ブッダ本人が来ているときいて、自分で門まで出ようとします。女のカンが働いたのか、国中で一番の美人と評判の奥さん孫陀利(そんだり)はこれの袖を引いていいました。
 「いかないで」
 「すぐ戻ってくるから」
 「あたしの化粧が乾くまで、戻っておいでよ」
 門まで出た難陀はブッダの鉢を受け取り、ご飯でいっぱいにしてあげましたが、再び門に戻ったときにはブッダの姿がありませんでした。ブッダに一番親しい弟子阿難(あなん)が通り過ぎていました。ブッダと難陀の従弟でもある人です。
 「この鉢、ブッダに届けてもらえないか」
 「ブッダから直接受け取った物は、直接返しなさい」
 そういわれてしまった難陀はブッダの後を追い、結局は叢林(そうりん)まで行ってしまいました。鉢を返しに来ただけの難陀に、あろうことか、ブッダが頭を剃らせてしまうのです。
 「僕は王位を継ぐものだよ」
 難陀は抵抗しますが、やがて
 《午前中はブッダに従い、午後は家に帰ろう》
 と諦めるのです。
 次には叢林の「知事」という立場を与えられます。
 「知事って?」と聞く難陀に従弟の阿難は説明します。
 「皆が托鉢に出かけている間、知事はそこらじゅうに落ちている牛糞を取り除いて、掃除をして水をまく。薪を運んで、警備にも当たる。皆が出た後には門を閉め、帰ってくるまでは再び門を開ける。トイレ掃除もよろしくたのむ。」
 さあ、たいへんです。無理やり頭を丸めさせられた難陀はいきなり叢林の留守番や国・・・
 皆がいなくなってから、東の門を閉めようと思ったら西の門が開いてしまい、西の門を閉めに行ったら東の門が開いてしまいました。何もかも、うまくいきません。
 「僕が王様になってからでも、何百倍も立派な僧堂を建立するから、今日はこのへん、とんずらだ!」
 大通りに出ればブッダに出会うかもしれないと思っていた難陀は勝手口から出ましたが、運悪く、ちょうど向うから托鉢帰りのブッダが近いづいてくるのではありませんか。難陀は木の枝に隠れようとするが、風が吹いて枝を揺らしてしまいました。そうじゃなくとも、ブッダにはすぐばれていたのでしょう。
 「難陀、あなたはどこへ行こうとしたのか」
 「嫁のところです」
 実は、難陀と孫陀利はまだ新婚さんでした。そこでブッダは難陀をある高い山に連れて行きました。山の上には一本の果実の木が立っており、木下には片目しかないメスサルが坐っていました。
 「このサルと孫陀利と、どちらが美しいとおもうか」
 「僕の大好きな孫陀利に決まっているではないか」
 次に、ブッダは難陀を天の三十三番街まで連れて行きます。そこのプレジャーガーデン(楽園)にひとりの美しい天女が音楽を弾いていました。
 「君には彼氏がいないの」
 と思わず声をかけた難陀に彼女は言いました。
 「今はいないの。でも下界で一生懸命に修行しているナンダという人は来世このプレジャーガーデンに生まれ変わり、私の彼氏になるはずのよ。」
 ブッダはまた難陀に聞きました。
 「彼女と孫陀利と、どちらが美しいとおもうか」
 「なにをいう!この天女さんと孫陀利のギャップは、孫陀利とあのメスサルのギャップよりも大きい」
 将来この天女の彼氏になれれば、しばらく孫陀利にあえなくてもとにかく修行に没頭しようと決めました。ところが、今度は他の叢林のメンバーに仲間はずれにされてしまいました。従弟の阿難にまでが、難陀がそばに坐ろうとしたら席から立ち上がるのでした。
 「従弟の君まで、どうして僕を相手にしないのか」
 「それは君と僕と、志も修行の目標も違うからだ。君は天国に行こうとしているけど、僕たちはそんなところを目指さない」
 わけが分からなくなってしまった難陀に、またブッダが問いかけました。
 「地獄にいったことがあるか」
 「いいえ、ないよ」
 ブッダが連れて行った地獄の光景は恐ろしかったのです。苦しみにもがいている人たちでいっぱいでしたが、一箇所だけスペースが開いていました。
 「ここにどうしてスペースが開いているの」
 ときいていた難陀に見張り番が答えました。
 「ここはナンダという人の指定席だよ。今は人間界にいて、次は天国に生まれ変わる予定になっているけど、天国の次にはこちらへ落ちてくることになっているのだ。」
 恐ろしくなってしまった難陀はその後、天国行きの夢から目がすっかり覚めてしまったようです。そして、知事という仕事にも没頭できたようです。それはあのぱっとしない難陀ですら、道元禅師に「貴にして尊たり知事」と言わしめたくらいです。
 ぱっとしないからこそ、自分に酔いようがない。自分に酔っていなければ、目を覚ませる。個人のレベルで考えても、国単位で考えても、同じかもしれません。自分自身に酔わないように、浮かれないように気をつけなければならないと思います。
 私が最初に日本に来たのが今から二十五年前、一九八七年の夏でした。大学に入学する前の三ヶ月間のホームステイでした。当時の日本はバブル経済の最中、皆は私にこういいました。
 「どうだ、すごいだろ。日本はドイツより豊かにもなったし、もうすぐアメリカよりも豊かになるのだぞ。そのためにがんばっているのさ。」
 今から思えば、あの難陀の浅はかな夢とどこか似てはいないでしょうか。バブルがはじけて、いざ地獄に向かおうとしている日本・・・いや、「長い長い箸」の話を持ち出すまでもなく、今の社会が天国か地獄かということは、しょせんは見方次第、生きる態度次第です。
 「天国じゃなくて、よかったかも。解決口の見えない、問題だらけの今の社会にこそ、私の働き場があるのでは」
 この希望から、この気づきから、新たな道も開けるのではないでしょうか。

 いわゆる為公とは無私曲なり。無私曲とは稽古慕道なり。 (知事清規)

 「知事」とは日本の都道府県の首長ですが、もともとは仏教用語です。サンスクリット語の「Karma-dana」が語源で、事を司るという意味です。ちなみに、「大衆」ももとは仏教用語で、集僧という意味です。古来の叢林(仏教の修行道場)には大衆(だいしゅ)の面倒をみるために、4人の知事がいたのです(後に六知事に増えます)。
 寺の総監にあたる「監院(かんにん)」、修行僧の世話人である「維那(いの)」、台所で大衆の料理を作る「典座(てんぞ)」と伽藍の修理などの作務を司る「直歳(しっすい)」です。
 この四つの役職の心構えとして、道元禅師は「知事清規」というマニュアルを著しています。監院については次のように書いています。

 監院の職は為公(いこう)これ務む。いわゆる為公とは無私曲(むしきょく)なり。無私曲とは稽古慕道なり。慕道は以(も)って道に順うなり。
 (監院が公のために務めなければなりません。そのため、私事を忘れなければなりません。私事を忘れるということは、「道」の忠実な実践です)

 キーポイントは「為公」です。道元禅師はその内実を具体的に表しています。

 事大小と無く人と商議してすなわち行事するは、すなわち為公なり。商議すといえども他語を容(い)れずんば、議せざるに如(し)かず。
 (事の大小に関わらず、人と相談してから行動すること。相談といっても、人の意見を聞かないのであれば、相談したことにはならない)

 監院が持たなければならない「道心」の説明で、道元禅師も気合が入ります。

 黄金を糞土(ふんど)に比し、声誉を涕唾(ていだ)に比し、真を瞞(あざむ)かず偽に順はず。
 (お金を糞<くそ>とし、名誉をツバとし、真実を偽りとせず偽りを真実としない)

 どうしてそこまで言葉を荒くする必要があったのでしょうか。
 おそらく、昔の寺院の中で自分を忘れて大衆のために務める監院ばかりではなかったからでしょう。

 権勢に倚持して、大衆を軽ばくすることを得ざれ。また意に任せて事を行い、衆をして不安ならしむることを得ざれ。
 (権力者の顔色を伺い、大衆を軽く見るようなことをしない。独断で行動し皆を不安にさせてはいけない。)

 知事の中でも一番えらいのは「監院」です。監院が一番えらいのですが、自分をえらいと思ってはいけません。一番えらいからこそ、無私曲でなければなりませんし、無私曲でなければ、本当にえらいとは言えません。監院にとって、一番えらいのは「公」ですが、この「公」は決して権力(権勢)という意味ではなく、「大衆」です。監院のまなざしは、常に大衆に向けられていなければなりません。だから皆と相談をし、人の意見を聞かなければ監院とは言えないのです。
 世の中の政治家などにも、大いに反省してもらいたい、と言いたいところですが、ひとごとではありません。
 以降、私の話の続きです。
 私の師匠である宮浦信雄老師がが不慮の事故でなくなったのは、今から十三年前、二〇〇二年のバレンタインデーのことでした。ブルドーザーでバス停まで四キロの道のりを除雪し、Uターンして山に戻ろうとした際に重機ごと冷たい川に落ちしまったのです。
 事故当時、安泰寺には二、三人しか雲水が残っておらず、留守番役として呼び戻されたのは私でした。
 「どうせ、ホームレスとして暇を持って余しているのだろう」
 というのは先輩の言い分でした。確かに、当時の私は暇でした。先輩に逆らうわけにも行きません。しかし、春になって「住職として安泰寺を守ってくれ」と言われたときには、さすがに驚きました。弟子の中でも一番若い、経験も浅い、しかも外国人の私がどうしたら一ヶ寺の住職に?
 これをきっかけに、当時付き合っていた彼女にプロポーズをしました。
 「俺について、山寺に来ないか?」
 寺には檀家(だんか)が一軒もない、住職の給料はゼロ。米や野菜、かまどで使う薪を自給自足でまかなっている。そんなことを彼女に伝えました。
 「そのお寺の住職は、何年くらいするの?」
 「まぁ、まず十年だな」
 「無理かもしれないけど、がんばってついていくわ」
 二人の間に、子どもが三人も生まれました。一方、私の元で出家得度(しゅっけとくど)した仏弟子も十数人います。彼らの指導に当たることがこの山寺での私の使命です。ところが、十一年たった今、後を継げそうな弟子はまだ育っていません。これから育つかどうかも、心配です。嫁にはこう言われています。
 「約束の十年はもうとくに過ぎたけど、どうするの? 子どもの教育や、私たちの老後はどうなるの?」
 弟子も知りたいようです。
 「僕たちは安泰寺で何年修行をすれば、ちゃんとした檀家寺の住職になれるのですか? それまで、小遣いは出ないのですか?」
 おいおい、オレのことを誰だと思っているのだ。オレが誰のために寿命を減らしているのか、分かっているのか。ついついこう叫びたくなるのも事実です。
 一ヶ寺を管理・監督する立場で道元禅師に学び、初心に帰らなければならないのは、他でもなくこの私なのです。

(ネルケ無方著 「生きるヒント33」より)