今年の冬安居で首座をつとめる無為が「八大人覚」の輪講に当たりました。
最初の十数分を下の動画でご覧になれます。

原文:
三者には楽寂静。
諸のかい閙を離れ、空閑に独処す。楽寂静と名づく。
佛言わく、「汝等比丘、寂静無為の安楽を求めんと欲せば、当にかい閙を離れて、独処に閑居すべし。
静処之人は、帝釈諸天の共に敬重する所なり。是の故に当に、己衆佗衆を捨てて、空閑に独処して、苦本を滅せんことを思うべし。
若し衆を楽う者は、則ち衆悩を受く。譬えば大樹の衆鳥之に集まれば則ち枯折の患有るが如し。
世間は縛著して衆苦に没す。譬えば老象の泥に溺れて自ら出ずること能わざるがごとし。是を遠離と名づく。」

ネルケ無方著「ただ坐る」より:

静処というありよう

 坐禅儀の中では、坐禅の環境について次のように述べられています。

 坐禪は靜處よろし。

 坐る場所は静かでなければなりません。周りがうるさければ、坐禅に集中しにくいものです。しかし、山奥ならともかく、町の中で坐禅をしている場合、なかなかそううまくはいかないでしょう。車の音、隣の家から響く声…六婆羅蜜(ろくはらみつ)のうちの忍耐(安忍ともいう)を行じなければならない時もあります。
 一九九〇年代のはじめ、私は留学生として京都にいました。大文字山のふもと、左京区北白川の静かな住宅街に下宿をしていました。気になるほどの騒音ではありませんでしたが、日中は当然、物音や車の行き交う音がしていました。なので、月に一、二回参加していた安泰寺の接心の静寂さにいつも期待していました。安泰寺は一本の細い山道の終着点にあり、バス停から四キロ離れています。午後に手紙をもってきてくれる郵便屋さんのカブの音以外は人工的な音がほとんど聞こえない所なのです。
 ところが、そのころから日本政府が「地滑り対策」と銘打った莫大な税金を注ぎ込む事業の対象地域に安泰寺の境内も指定され、周辺に穴を掘って地下水を排出させたりダムを造ったりする作業がなされたのです。つまり、この作業が行われると、巨大なトラックや重機が寺の境内に出入りし、実に騒々しい限りなわけです。もちろん、この作業はたかだか安泰寺の接心くらいでは休んでくれるはずもありません。
 わざわざ京都から電車やバスを乗り継ぎ、あの急な坂道を歩いて上って接心中の静寂を求めて来た私にふりかかった災難…それは下界よりも尚一層の騒音なのでした。安泰寺の雲水たちは全く気にする様子もなく、騒音を子守歌にしあわせそうに居眠りしている者もいましたが、私はというと、坐禅中にトラックが往き来し私の集中を妨げると、もう血管がブチ切れそうになるほど腹が立っていました。なぜ誰もせめて接心中は工事を中断するように言わないのか、不思議でなりませんでした。接心以外の時にでも、私が京都に帰ってここにいない時にでも、工事をすればいいではないか!
 この経験から学んだことは、私を取り巻く騒音よりも、私自身のココロの「騒音」の方がよほどうるさかったということです。「静かに!」という言葉は、むしろそういいたい自分自身に投げかけなければなりません。忍耐の修行とは歯を食いしばることでも、思考を停止させることでもないのです。ただ、受け入れなければならない現実を静かに受け入れることなのです。
 「八大人覚」という正法眼蔵の巻で道元禅師は大人の八つの条件を取り上げています。一般にもよく知られている「少欲」と「知足(ちそく)」につづいて、三番目は「楽寂静(ぎょうじゃくじょう)」という大人の条件です。その中身を禅師は次の言葉で説明されています:

諸の憒閙(かいにょう)を離れ、空間に独処するを、楽寂静と名づく。

憒閙(かいにょう)とは市場のように、多くの人が騒いでる様子から、身心を乱し、悩ませる煩悩をいいます。ここで大事なことは、煩悩の騒音が決して自分の外側にあるのではない、という大人の気づきです。