新しい著書が21日に出版されます:

前書きより:
『仏教がすすめている生き方とはどういうものなのか?
 その問に答えるためには、まず「生きることは苦しい」という思いの原因を突き詰めなければなりません。一言で言えば、執着があるから生きることが苦しくなるのです。誰しも「あれが欲しい、これが欲しい」とあれこれを追い求めて生きています。しかしそれが手に入るとは限りません。また、「あれがしたい、これがしたい」と思っても、いつも好きなことができるというわけではありません。むしろ、自分の思う通りにならないことが大半ではないでしょうか。「物足りない」という思いが募ると、人間が苦しくなります。
 「夢」「前向き」「プラス思考」なども、私たちの鼻の前にぶら下がっているニンジンのようなものです。それを必死になって追い求めているうちは生きる苦しさを忘れることができるかもしれませんが、求めているそのものがいつまでたっても手に入らないということがわかれば、その絶望感がなおさら大きいです。
 人間は周りの物ごとばかりに執着しているのではありません。一番厄介な執着は、自分自身に対する執着です。「別に自分に生まれ変わりたい」とか、「ありのままの自分を表現できない」という思いで苦しむ人も少なくないでしょう。あるいは、今はよくても「年をとりたくない」「死が怖い」などという執着もあります。「執着をするのは悪い」という人もいますが、逆に「私には執着がなさすぎて、生きることがつまらない。何かに執着がしたいけど、何もない!」という複雑な執着の持ち主もいます。
 私がこの本で皆さんに送りたいメッセージはごく簡単なものです。
「執着はあってもいいし、なくてもいい。生きることで悩まなくてもいいし、悩んでもいい」
 「自分」「愛」「仕事」「親と子」「老と死」など、執着の対象となる物ごとは数えきれません。「執着があってはならない」というのも、ひとつの執着に過ぎないから、執着があるならあったで、その執着と上手に付き合いながら生きていきましょう。しかし執着がなければないほど、悩みの種も減りますう。執着がないからといって、それで悩む必要はないでしょう。』

以下は、摂心明けの放参、本堂の裏と表で撮影した動画です。堂頭が英語で、提唱で話していた正法眼蔵・行持の摩訶迦葉の頭陀行と、欧米と日本の葬式について説明しています。

二〇〇二年、アメリカのジョージア州の火葬場の事件について、ウィキペディナの英語版が詳しいです:
en.wikipedia.org/wiki/Tri-State_Crematory