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「私が日本に恋をした理由」& 本堂回り、2019年1月16日&18日

「弁道話講義⑨」、2018年12月20日

資料:
諸佛如來ともに妙法を單傳して、阿耨菩提を證するに、最上無爲の妙術あり。これただ、ほとけ佛にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり。この三昧に遊化するに、端坐参禪を正門とせり。この法は、人々の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、證せざるにはうることなし… 
もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる…
しるべし、たとひ十方無量恒河沙数(むりょうごうがしゃすう)の諸仏、ともにちからをはげまして、仏智慧をもて、一人坐禅の功徳をはかり、しりきはめんとすといふとも、あへてほとりをうることあらじ。

神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って、第七日に休まれた。『創世記1・31~2・2』

いまこの坐禅の功徳、高大なることをききをはりぬ。おろかならん人、うたがふていはん、
「仏法におほくの門あり、なにをもてかひとへに坐禅をすすむるや。」
しめしていはく、「これ仏法の正門なるをもてなり。」

とふていはく、「なんぞひとり正門とする。」
しめしていはく、「大師釈尊、まさしく得道の妙術を正伝し、又 三世の如来、ともに坐禅より得道せり。このゆゑに正門なることをあひつたへたるなり。しかのみにあらず、西天東地の諸祖、みな坐禅より得道せるなり。ゆゑにいま正門を人天にしめす。」

原(たず)ぬるに、夫(そ)れ道本円通(どうもとえんづう)、争(いか)でか修証(しゅしょう)を仮(か)らん。宗乗(しゅうじょう)自在、何ぞ功夫(くふう)を費(ついや)さん。況んや全体逈(はる)かに塵埃(じんない)を出(い)づ、孰(たれ)か払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。大都(おおよそ)当処(とうじょ)を離れず、豈に修行の脚頭(きゃくとう)を用ふる者ならんや。然(しか)れども、毫釐(ごうり)も差(しゃ)有れば、天地懸(はるか)に隔り、違順(いじゅん)纔(わず)かに起れば、紛然として心(しん)を(の)失す。直饒(たとい)、会(え)に誇り、悟(ご)に豊かに、瞥地(べつち)の智通(ちつう)を獲(え)、道(どう)を得、心(しん)を(の)明らめて、衝天の志気(しいき)を挙(こ)し、入頭(にっとう)の辺量に逍遥すと雖も、幾(ほと)んど出身の活路を虧闕(きけつ)す。矧(いわ)んや彼(か)の祇薗(ぎおん)の生知(しょうち)たる、端坐六年の蹤跡(しょうせき)見つべし。少林の心印を伝(つた)ふる、面壁九歳(めんぺきくさい)の声名(しょうみょう)、尚ほ聞こゆ。古聖(こしょう)、既に然り。今人(こんじん)盍(なん)ぞ辦ぜざる。所以(ゆえ)に須(すべか)らく言(こと)を尋ね語を逐ふの解行(げぎょう)を休すべし。須らく囘光返照(えこうへんしょう)の退歩を学すべし。身心(しんじん)自然(じねん)に脱落して、本来の面目(めんもく)現前(げんぜん)せん。恁麼(いんも)の事(じ)を得んと欲せば、急に恁麼の事(じ)を務(つと)めよ。
夫れ参禅は静室(じょうしつ)宜しく、飲食(おんじき)節あり、諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪(ぜんなく)を思はず、是非を管すること莫(なか)れ。心意識の運転を停(や)め、念想観の測量(しきりょう)を止(や)めて、作仏を(と)図ること莫(なか)れ。豈に坐臥に拘(かか)はらんや。尋常(よのつね)、坐処には厚く坐物(ざもつ)を(と)敷き、上に蒲団を用ふ。或(あるい)は結跏趺坐、或は半跏趺坐。謂はく、結跏趺坐は、先づ右の足を以て左の(もも)の上に安じ、左の足を右の(もも)の上に安ず。半跏趺坐は、但(ただ)左の足を以て右の(もも)を圧(お)すなり。寛(ゆる)く衣帯(えたい)を繋(か)けて、斉整(せいせい)ならしむべし。次に、右の手を左の足の上に安(あん)じ、左の掌(たなごころ)を右の掌の上に安ず。兩(りょう)の大拇指(だいぼし)、面(むか)ひて相(あい)拄(さそ)ふ。乃(すなわ)ち、正身端坐(しょうしんたんざ)して、左に側(そばだ)ち右に傾き、前に躬(くぐま)り後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ。耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す。舌、上の腭(あぎと)に掛けて、脣歯(しんし)相(あい)著け、目は須らく常に開くべし。鼻息(びそく)、微かに通じ、身相(しんそう)既に調へて、欠気一息(かんきいっそく)し、左右搖振(ようしん)して、兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)して、箇(こ)の不思量底を思量せよ。不思量底(ふしりょうてい)、如何(いかん)が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。
所謂(いわゆる)坐禅は、習禅には非ず。唯、是れ安楽の法門なり。菩提を究尽(ぐうじん)するの修證(しゅしょう)なり…
何ぞ自家(じけ)の坐牀(ざしょう)を抛卻(ほうきゃく)して、謾(みだ)りに他国の塵境に去来せん。若し一歩を錯(あやま)らば、当面に蹉過(しゃか)す…『普勧坐禅儀』

夫れ学般若の菩薩は、先ず当に大悲心を起こし、弘(ぐ)誓願を発し、精(たけ)く三昧を修し、誓って衆生を度し、一身の為に独り解脱を求めざるべし。乃ち諸縁を放捨し、万事を休息し身心一如にして、動静間無(へだてな)く、其の飲食を量って、多からず少なからず、其の睡眠を調えて節せず、恣にせず。坐禅せんと欲する時、閑静處(かんじょうしょ)に於いて厚く坐物を敷き、寛(ゆる)く衣帯を繋け、威儀をして齊整(せいせい)ならしめ、然る後、結跏趺坐せよ。先ず右の足を以って、左のももの上に安じ、左の足を右のももの上に安ぜよ。或いは、半跏趺坐も亦た可なり。但左の足を以って、右の足を圧すのみ。次に右の手を以って、左の足の上に安じ、左の掌を右の掌の上に安じ、両手の大拇指の面をもって相拄(あいささ)え、徐徐として身を挙し、前後左右、反覆揺振(はんぷくようしん)して、乃ち身を正しうして端坐せよ。左に傾き右に側(そばだ)ち、前に躬まり後に仰ぐことを得ざれ。腰脊頭頂(ようせきずちょう)骨節をして相拄え、状(かたち)浮屠(ふと)の如くならしめよ。又た身を聳(そび)やかすこと太(はなは)だ過ぎて、人をして気急不安(ききゅうふあん)ならしむることを得ざれ。耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対し、舌は上の顎(あぎと)を拄え、唇歯相著(しんしあいつけ)けしむることを要せよ。目は須らく微(すこ)し開き、昏睡を致すこと免るべし。若し禅定を得れば其の力最勝なり。古え習定の高僧有り、坐して常に目を開く。向(さ)きの法雲円通禅師も亦た、人の目(まなこ)を閉(と)じて坐禅するを訶して、以って黒山の鬼窟と謂えり。蓋(けだ)し深旨(じんし)あり、達者焉(これ)を知るべし。身相既に定まり、気息既に調い、然して後(のち)臍腹(さいふく)を寛放(かんほう)し、一切の善悪都て思量すること莫れ。念起らば即ち覚せよ。之を覚すれば即ち失す。久々に縁を忘すれば、自ら一片と成る。此れ坐禅の要術なり。窃(ひそ)かに謂うに坐禅は乃ち安楽の法門なり。而るに人多く疾を致すは、蓋し用心を善くせざるが故なり…『禅苑清規(長蘆宗賾編)・坐禅儀』

(1)仏法僧を敬うや否や。
(2)善知識を求むるや否や。
(3)菩提心を発悟するや否や。…
(118)一生の事辨ずるや否や。
(119)大自在を得るや否や。
(120)大涅槃を証するや否や。『禅苑清規・一百二十問』

「弁道話講義⑨」、2018年12月20日

資料:
諸佛如來ともに妙法を單傳して、阿耨菩提を證するに、最上無爲の妙術あり。これただ、ほとけ佛にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり。この三昧に遊化するに、端坐参禪を正門とせり。この法は、人々の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、證せざるにはうることなし… 
もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる…
しるべし、たとひ十方無量恒河沙数(むりょうごうがしゃすう)の諸仏、ともにちからをはげまして、仏智慧をもて、一人坐禅の功徳をはかり、しりきはめんとすといふとも、あへてほとりをうることあらじ。

神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って、第七日に休まれた。『創世記1・31~2・2』

いまこの坐禅の功徳、高大なることをききをはりぬ。おろかならん人、うたがふていはん、
「仏法におほくの門あり、なにをもてかひとへに坐禅をすすむるや。」
しめしていはく、「これ仏法の正門なるをもてなり。」

とふていはく、「なんぞひとり正門とする。」
しめしていはく、「大師釈尊、まさしく得道の妙術を正伝し、又 三世の如来、ともに坐禅より得道せり。このゆゑに正門なることをあひつたへたるなり。しかのみにあらず、西天東地の諸祖、みな坐禅より得道せるなり。ゆゑにいま正門を人天にしめす。」

原(たず)ぬるに、夫(そ)れ道本円通(どうもとえんづう)、争(いか)でか修証(しゅしょう)を仮(か)らん。宗乗(しゅうじょう)自在、何ぞ功夫(くふう)を費(ついや)さん。況んや全体逈(はる)かに塵埃(じんない)を出(い)づ、孰(たれ)か払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。大都(おおよそ)当処(とうじょ)を離れず、豈に修行の脚頭(きゃくとう)を用ふる者ならんや。然(しか)れども、毫釐(ごうり)も差(しゃ)有れば、天地懸(はるか)に隔り、違順(いじゅん)纔(わず)かに起れば、紛然として心(しん)を(の)失す。直饒(たとい)、会(え)に誇り、悟(ご)に豊かに、瞥地(べつち)の智通(ちつう)を獲(え)、道(どう)を得、心(しん)を(の)明らめて、衝天の志気(しいき)を挙(こ)し、入頭(にっとう)の辺量に逍遥すと雖も、幾(ほと)んど出身の活路を虧闕(きけつ)す。矧(いわ)んや彼(か)の祇薗(ぎおん)の生知(しょうち)たる、端坐六年の蹤跡(しょうせき)見つべし。少林の心印を伝(つた)ふる、面壁九歳(めんぺきくさい)の声名(しょうみょう)、尚ほ聞こゆ。古聖(こしょう)、既に然り。今人(こんじん)盍(なん)ぞ辦ぜざる。所以(ゆえ)に須(すべか)らく言(こと)を尋ね語を逐ふの解行(げぎょう)を休すべし。須らく囘光返照(えこうへんしょう)の退歩を学すべし。身心(しんじん)自然(じねん)に脱落して、本来の面目(めんもく)現前(げんぜん)せん。恁麼(いんも)の事(じ)を得んと欲せば、急に恁麼の事(じ)を務(つと)めよ。
夫れ参禅は静室(じょうしつ)宜しく、飲食(おんじき)節あり、諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪(ぜんなく)を思はず、是非を管すること莫(なか)れ。心意識の運転を停(や)め、念想観の測量(しきりょう)を止(や)めて、作仏を(と)図ること莫(なか)れ。豈に坐臥に拘(かか)はらんや。尋常(よのつね)、坐処には厚く坐物(ざもつ)を(と)敷き、上に蒲団を用ふ。或(あるい)は結跏趺坐、或は半跏趺坐。謂はく、結跏趺坐は、先づ右の足を以て左の(もも)の上に安じ、左の足を右の(もも)の上に安ず。半跏趺坐は、但(ただ)左の足を以て右の(もも)を圧(お)すなり。寛(ゆる)く衣帯(えたい)を繋(か)けて、斉整(せいせい)ならしむべし。次に、右の手を左の足の上に安(あん)じ、左の掌(たなごころ)を右の掌の上に安ず。兩(りょう)の大拇指(だいぼし)、面(むか)ひて相(あい)拄(さそ)ふ。乃(すなわ)ち、正身端坐(しょうしんたんざ)して、左に側(そばだ)ち右に傾き、前に躬(くぐま)り後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ。耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す。舌、上の腭(あぎと)に掛けて、脣歯(しんし)相(あい)著け、目は須らく常に開くべし。鼻息(びそく)、微かに通じ、身相(しんそう)既に調へて、欠気一息(かんきいっそく)し、左右搖振(ようしん)して、兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)して、箇(こ)の不思量底を思量せよ。不思量底(ふしりょうてい)、如何(いかん)が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。
所謂(いわゆる)坐禅は、習禅には非ず。唯、是れ安楽の法門なり。菩提を究尽(ぐうじん)するの修證(しゅしょう)なり…
何ぞ自家(じけ)の坐牀(ざしょう)を抛卻(ほうきゃく)して、謾(みだ)りに他国の塵境に去来せん。若し一歩を錯(あやま)らば、当面に蹉過(しゃか)す…『普勧坐禅儀』

夫れ学般若の菩薩は、先ず当に大悲心を起こし、弘(ぐ)誓願を発し、精(たけ)く三昧を修し、誓って衆生を度し、一身の為に独り解脱を求めざるべし。乃ち諸縁を放捨し、万事を休息し身心一如にして、動静間無(へだてな)く、其の飲食を量って、多からず少なからず、其の睡眠を調えて節せず、恣にせず。坐禅せんと欲する時、閑静處(かんじょうしょ)に於いて厚く坐物を敷き、寛(ゆる)く衣帯を繋け、威儀をして齊整(せいせい)ならしめ、然る後、結跏趺坐せよ。先ず右の足を以って、左のももの上に安じ、左の足を右のももの上に安ぜよ。或いは、半跏趺坐も亦た可なり。但左の足を以って、右の足を圧すのみ。次に右の手を以って、左の足の上に安じ、左の掌を右の掌の上に安じ、両手の大拇指の面をもって相拄(あいささ)え、徐徐として身を挙し、前後左右、反覆揺振(はんぷくようしん)して、乃ち身を正しうして端坐せよ。左に傾き右に側(そばだ)ち、前に躬まり後に仰ぐことを得ざれ。腰脊頭頂(ようせきずちょう)骨節をして相拄え、状(かたち)浮屠(ふと)の如くならしめよ。又た身を聳(そび)やかすこと太(はなは)だ過ぎて、人をして気急不安(ききゅうふあん)ならしむることを得ざれ。耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対し、舌は上の顎(あぎと)を拄え、唇歯相著(しんしあいつけ)けしむることを要せよ。目は須らく微(すこ)し開き、昏睡を致すこと免るべし。若し禅定を得れば其の力最勝なり。古え習定の高僧有り、坐して常に目を開く。向(さ)きの法雲円通禅師も亦た、人の目(まなこ)を閉(と)じて坐禅するを訶して、以って黒山の鬼窟と謂えり。蓋(けだ)し深旨(じんし)あり、達者焉(これ)を知るべし。身相既に定まり、気息既に調い、然して後(のち)臍腹(さいふく)を寛放(かんほう)し、一切の善悪都て思量すること莫れ。念起らば即ち覚せよ。之を覚すれば即ち失す。久々に縁を忘すれば、自ら一片と成る。此れ坐禅の要術なり。窃(ひそ)かに謂うに坐禅は乃ち安楽の法門なり。而るに人多く疾を致すは、蓋し用心を善くせざるが故なり…『禅苑清規(長蘆宗賾編)・坐禅儀』

(1)仏法僧を敬うや否や。
(2)善知識を求むるや否や。
(3)菩提心を発悟するや否や。…
(118)一生の事辨ずるや否や。
(119)大自在を得るや否や。
(120)大涅槃を証するや否や。『禅苑清規・一百二十問』

本の紹介:永井均著「西田幾多郎」、長谷川俊道著「人生に悔いを残さないための悟り入門」、吉水秀樹著「ダニヤ経」、藤田一照&スマ長著「テーラワーダと禅」 & 本堂回り&新記事、2018年12月8日&9日&10日

「弁道話講義⑧」& 本堂回り、2018年11月20・21日

資料:
もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる。ゆゑに、諸仏如来をしては本地の法楽をまし、覚道の荘厳をあらたにす。および十方法界、三途六道の群類、みなともに一時に身心明浄にして、大解脱地を証し、本来面目現ずるとき、諸法みな正覚を証会(しょうえ)し、万物ともに仏身を使用して、すみやかに証会の辺際を一超して、覚樹王に端坐して、一時に無等等の大法輪を転じ、究竟(くきょう)無為の深般若を開演す。
これらの等正覚、さらにかへりて したしくあひ冥資(みょうし)するみちかよふがゆえに、この坐禅人、確爾(かくじ)として身心脱落し、従来雑穢(ぞうえ)の知見思量を截断(せつだん)して、天真の仏法に証会し、あまねく微塵際(みじんさい)そこばくの諸仏如来の道場ごとに仏事を助発(じょほつ)し、ひろく仏向上の機にかうぶらしめて、よく仏向上の法を激揚す。このとき、十方法界の土地、草木、牆壁(しょうへき)、瓦礫(がりゃく)、みな仏事をなすをもて、そのおこすところの風水の利益にあづかるともがら、みな甚妙(じんみょう)不可思議の仏化に冥資せられて、ちかきさとりをあらはす。
この水火を受用するたぐひ、みな本証の仏化を周旋(しゅうせん)するゆえに、これらのたぐひと共住(ぐじゅう)して同語するもの、またことごとくあいたがひに無窮の仏徳そなはり、展転広作(てんでんこうさ)して、無尽、無間断(むけんだん)、不可思議、不可称量の仏法を、遍法界の内外に流通するものなり。しかあれども、このもろもろの当人の知覚に昏(こん)ぜざらしむることは、静中(じょうちゅう)の無造作にして直証なるをもてなり。もし、凡流(ぼんる)の おもひのごとく、修証を両段にあらせば、おのおのあひ覚知すべきなり。もし覚知にまじはるは証則にあらず、証則には迷情およばざるがゆえに。又、心境ともに静中の証入、悟出あれども、自受用の境界なるをもて、一塵をうごかさず、一相をやぶらず、広大の仏事、甚深微妙の仏化をなす。
この化道(けどう)のおよぶところの草木、土地ともに大光明をはなち、深妙法をとくこと、きはまるときなし。草木牆壁(そうもくしょうへき)はよく凡聖含霊(ぼんしょうがんれい)のために宣揚(せんよう)し、凡聖含霊はかへって草木牆壁のために演暢(えんちょう)す。
自覚、覚他の境界、もとより証相をそなへてかけたることなく、証則おこなはれておこたるときなからしむ。ここをもて、わづかに一人一時の坐禅なりといへども、諸法とあひ冥(みょう)し、諸時とまどかに通ずるがゆゑに、無尽法界のなかに、去来現(こらいげん)に、常恒(じょうごう)の仏化道事をなすなり。
彼彼(ひひ)ともに一等の同修なり、同証なり。ただ坐上の修のみにあらず、空をうちてひびきをなすこと、撞(とう)の前後に妙声綿綿(みょうしょうめんめんん)たるものなり。このきはのみにかぎらむや、百頭(はくとう)みな本面目に本修行をそなへて、はかりはかるべきにあらず。しるべし、たとひ十方無量恒河沙数(むりょうごうがしゃすう)の諸仏、ともにちからをはげまして、仏智慧をもて、一人坐禅の功徳をはかり、しりきはめんとすといふとも、あへてほとりをうることあらじ。

三位一体論    父(創造主)・聖霊       ・子(救済主であるイエス)
仏身論(三身説) 法身(仏性)・報身(仏性の働き)・応身(色身・現実の身体)

わが宗では「坐禅」が本尊。「非思量」が法身。「修せざるにはあらわれず証せざるにはうることなし」が報身。「行も亦禅、坐も亦禅、語黙動静体安然(証道歌)」が応身。(沢木興道)

応に仏法僧に帰依したてまつるべし。三宝に三種の功徳あり。いわゆる一体三宝・現前三宝・住持三宝なり。阿耨多羅三藐三菩提を称して仏宝となす。清浄離塵なるは乃ちこれ法宝なり。和合の功徳は僧宝なり。これ一体三宝なり。現前に菩提を証するを仏宝と名く。仏の証する所はこれ法宝なり。仏法を学するはこれ僧宝なり。これを現前の三宝と名く。天上を化し、人間を化し、あるいは虚空に現じ、あるいは塵中に現ずるは、仏宝なり。あるいは海蔵に転じ、あるいは貝葉に転じ、物を化し、生を化するは法宝なり。一切の苦を度し、三界の宅を脱するは、乃ち僧宝なり。これ住持の三宝なり。『教授戒文』

過去現在未来の全宇宙、その宇宙の法則(真実そのもの、理)、事事無碍の世界(一体三宝)
歴史上の釈尊と本堂の仏像など、釈尊の教えと現在の経典、お袈裟を纏うっている僧侶集団(現前三宝)
「坐禅が坐禅をしている」坐禅そのもの、「坐禅が坐禅をしている」ことへの気づき、この坐禅を中心とした社会生活(住持三宝)

本堂回り、2018年11月12日&14日

本堂回り、2018年11月6日

「正法眼蔵・行持」講義&ジャムセッション、2018年10月30日・31日

世人のなさけある、金銀珍玩の蒙惠なほ報謝す、好語好聲のよしみ、こころあるはみな報謝のなさけをはげむ。如來無上の正法を見聞する大恩、たれの人面か、わするるときあらん。これをわすれざらん、一生の珍寶なり。この行持を不退轉ならん形骸髑髏は、生時死時、おなじく七寶塔におさめ、一切人天皆應供養の功徳なり。かくのごとく大恩ありとしりなば、かならず草露の命をいたづらに零落せしめず、如山の徳をねんごろに報ずべし。これすなはち行持なり。
この行持の功は、祖佛として行持するわれありしなり。おほよそ初祖二祖、かつて精藍を草創せず、薙草の繁務なし。および三祖四祖もまたかくのごとし。五祖六祖の寺院を自草せず、青原南嶽もまたかくのごとし。

Simply to maintain the practice day by day: only this is the right way to repay our gratitude. The principle here is to maintain the practice so that the life of every day is not neglected, and not wasted on private pursuits. For what reason? [Because] this life of ours is a blessing left over from past maintenance of the practice; it is a great favor bestowed by maintenance of the practice, which we should hasten to repay. How lamentable, how shameful, it would be, to turn skeletons whose life has been realized through a share of the virtue of the Buddhist patriarchs’ maintenance of the practice into the idle playthings of wives and children, to abandon them to the trifling of wives and children, without regret for breaking [precepts] and debasing [pure conduct]. It is out of wrongness and madness that [people] give over their body and life to the demons of fame and profit. Fame and profit are the one great enemy. If we are to assign weight to fame and profit, we should really appreciate fame and profit. Really to appreciate fame and profit means never to entrust to fame and profit, and thereby cause to be destroyed, the body and life that might become a Buddhist patriarch. Appreciation of wives, children, and relatives also should be like this. Do not study fame and profit as phantoms in a dream or flowers in space: study them as they are to living beings. Do not accumulate wrongs and retribution because you have failed to appreciate fame and profit. When the right eyes of learning in practice widely survey all directions, they should be like this.

Even a […]

本堂回り、2018年10月29日

大放参前のキャンプファイヤー & 秋の作務、2018年10月24&27日