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信心銘味読会(8回目)、2017年11月22日

資料:
(1)至道無難、唯嫌揀択、但だ憎愛莫ければ、洞然(とうねん)として明白(めいはく)なり。毫釐(ごうり)も差有れば、天地懸(はるか)に隔たる。現前を得んと欲せば、順逆を存すること莫かれ。違順(いじゅん)相爭う、是を心病と爲す。玄旨(げんし)を識らざれば、徒(いたず)らに念靜(ねんじょう)を労す。円(まどか)なること大虚(たいきょ)に同じ、欠ること無く餘ること無し。良(まこと)に取捨に由る、所以(ゆえ)に不如なり。
(2)有縁を逐うこと莫れ、空忍に住すること勿かれ、一種平懷なれば、泯然(みんねん)として自から盡く。動を止めて止に歸すれば、止更に彌(いよい)よ動ず。唯両辺に滞らば、寧ろ一種を知らんや、一種通ぜざれば、両処に功を失す。有を遣(や)れば有に沒し、空に隨(したが)えば空に背く。多言多慮、転(うた)た相応せず、絶言絶慮、処として通ぜずということ無し。根に帰すれば旨(し)を得、照に隨えば宗を失す。須臾(しゅゆ)も返照すれば、前空に勝却す。前空の転変は、皆妄見に由る。真を求むることを用いず、唯須らく見を息むべし。
(3)二見に住せず、慎しんで追尋すること勿れ。纔(わずか)に是非有れば、紛然として心を失す。二は一に由て有り、一も亦守ること莫れ。一心生ぜざれば、万法に咎無し。咎無ければ法無し、生ぜざれば心ならず。能は境に隨って滅し、境は能を逐うて沈す。境は能に由て境たり、能は境に由て能たり。両段を知らんと欲せば、元是れ一空、一空両に同じく、齊しく万象を含む、精粗を見ず、寧(なん)ぞ偏党あらんや。
(4)大道體寬にして、難無(な)く易(い)無し、小見は狐疑(こぎ)す、轉(うたた)急なれば轉遲(おそ)し。之(これ)を執(しゅう)すれば度を失して、必ず邪路に入る、之を放てば自然なり、体に去住無し。性に任ずれば道に合(かな)う、逍遙として惱を絶す。繋念は眞に乖(そむ)き、昏沈(こんちん)は不好なり。不好なれば神を勞す、何ぞ疎親することを用いん。一乘に趣かんと欲せば、六塵を悪(にく)むこと勿れ。六塵を惡まざれば、還て正覚に同じ。
(5)智者は無爲なり、愚人は自縛す。法に異法無し、妄(みだ)りに自から愛著す。心を将(もっ)て心を用う、豈大錯(たいしゃく)に非(あら)ざらんや。迷えば寂乱(じゃくらん)を生じ、悟れば好悪(こうお)無し。一切の二辺、妄りに自から斟酌す。夢幻空華、何ぞ把捉(はしゃく)に労せん。得失是非、一時に放却せよ。眼若し睡らざれば、諸夢自(おのず)から除く。心若し異ならざれば、万法一如なり。一如体玄なり、兀爾(こつじ)として縁を忘ず。萬法斉しく観ずれば、帰復(きぶく)自然なり。其(そ)の所以を泯じて、方比すべからず。
(6)動を止むるに動無く、止を動ずるに止無し。両既に成らず、一何ぞ爾(しか)ること有らん。究境窮極(くきょうきゅうきょく)、軌則を存せず。契心(かいしん)平等なれば、所作倶に息(や)む。狐疑淨盡(こぎじょうじん)して、正信調直(ちょうじき)なり。一切留らず、記憶す可きこと無し。虚明自照(こめいじしょう)、心力を労せざれ。非思量の処、識情測り難し。真如法界、他無く自無し。急に相応せんと要せば、唯不二と言う。不二なれば皆同じ、包容せずと言うこと無し。十方の智者、皆此宗に入る。
(7)宗は促延(そくえん)に非ず、一念万年(いちねんばんねん)。在と不在と無く、十方目前。極小は大に同じく、境界を忘絶(もうぜつ)す。極大は小に同じく、辺表(へんぴょう)を見ず。有即ち是無、無即ち是有。若し是の如くならずんば、必ず守ることを須(もち)いざれ。一即一切、一切即一。但能く是くの如くならば、何ぞ不畢(ふひつ)を慮(おもんばか)らん。信心不二、不二信心、言語道断(ごんごどうだん)、去来今(きょらいこん)に非ず。

「主がモーセに命じられたようにミデアンびとと戦って、その男子をみな殺した。…[中略]…またイスラエルの人々はミデアンの女たちとその子供たちを捕虜にし、その家畜と、羊の群れと、貨財とをことごとく奪い取り、そのすまいのある町々と、その部落とを、ことごとく火で焼いた」(民数記31:7~10)

「あなたがたは女たちをみな生かしておいたのか。…[中略]…子供たちのうちの男の子をみな殺し、また男と寝て、男を知った女をみな殺しなさい。ただし、まだ男と寝ず、男を知らない娘はすべてあなたがたのために生かしておきなさい」(民数記31:15~18)

「祭司たちはラッパを吹き鳴らした。民はラッパの音を聞くと同時に、みな大声をあげて呼ばわったので、石がきはくずれ落ちた。そこで民はみな、すぐに上って町にはいり、町を攻め取った。そして町にあるものは、男も、女も、若い者も、老いた者も、また牛、羊、ろばをも、ことごとくつるぎにかけて滅ぼした」(ヨシュア記6:20~21)

「ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼしつくすまでは、なげやりをさし伸べた手を引っこめなかった。ただし、その町の家畜および、ぶんどり品はイスラエルびとが自分たちの戦利品として取った。主がヨシュアに命じられた言葉にしたがったのである」(ヨシュア記8:26~27)

示して云く、大慧禪師、ある時尻に腫物出ぬれば、醫師此を見て大事の物なりと云ふ。慧の云く、大事の物ならば死ぬべきや否や。醫師云く、ほとんどあやふかるべし。慧の云く、若し死ぬべくんば彌よ坐禪すべしと云て、猶を強て坐しければ、其の腫物うみつぶれて別の事なかりき。古人の心かくのごとし。病をうけては彌よ坐禪せしなり。今の人病なふして坐禪ゆるくすべからず。病は心に隨て轉ずるかと覺ゆ。世間にしやくりする人に、虚言してわびつべき事を云つげぬれば、それをわびしつべき事に思ひ、心に入て陳ぜんとするほどに、忘れて其のしやくり留りぬ。我もそのかみ入宋の時、船中にて痢病せしに、惡風出來て船中さはぎける時、やまふ忘れて止りぬ。是を以て思ふに學道勤勞して他事を忘るれば、病も起るなじきかと覺るなり。(正法眼蔵随聞記5-16)

律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。(マタイによる福音書23-2~4)

大体いかなる師匠といえど凡夫であることには間違いはなく、完全者であるはずはないのであって、そんなこと初めから知ってかかるべきです。大切なことはこの「不完全者である師匠に、いかに完全なつき方をするか」を自己において修行することです。結局師につくということは、師をタタキ台として自己につくのです。(内山興正『発心して今から坊さんになりたい人へ』)

髄をうること、法をつたふること、必定して至誠(しじよう)により、信心によるなり。誠信(じようしん)ほかよりきたるあとなし、内よりいづる方なし。ただまさに法をおもくし、身をかろくするなり。世をのがれ、道をすみかとするなり。いささかも身をかへりみること、法よりおもきには、法つたはれず、道うることなし。―『正法眼蔵・礼拝得髄』

白隠禅師坐禅和讃:衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし 衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ たとえば水の中に居て 渇を叫ぶがごとくなり 長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず…

色 即 是 空、     空 即 是 色。
私は命に生かされて生き、 この命を私が生かせて生きている。
色 → 有・一切・万法・氷・衆生・生死・私・自ら  ・する     
空 → 無・一 ・自己・水・仏 ・涅槃・命・自ずから・させていただく

1998年のANTAIJI&本堂回り、2017年11月19日

先代住職、宮浦信雄老師のころの安泰寺:

それより数年前の画像:1995年の安泰寺

11月24日、NHKのBS2に出演します。:よみがえる雪舟の名画

2013年の安泰寺、1月2日から映画館でご覧になれます:

silentvoice.or.jp/works/zenfornothing/

映画『Zen for Nothing』〜何でもない禅〜 の予告編 & 安泰寺の秋の作務、2017年11月10日

内山興正老師の御提唱

安泰寺の六代目住職、内山興正老師の多くの御提唱をYoutubeにアップしました:

youtube.com/user/sendaba/videos

安泰寺を引退した後に、京都・大阪や信州で提唱された「正法眼蔵」が中心ですが、最初の方にはこちらのお話をおすすめ致します:

「Zen for Nothing」2018年1月2日からロードショー決定!

秋晴れの本堂回り、2017年10月26日

久しぶりに晴れたので、収穫したばかりの稲を本堂前の石畳で天日干ししました。今年もおかげさまで、稲刈りが無事に終了しました(一部、「古代米」の収穫は残っています)。白菜、大根と人参も順調に育っています:

先日、ブログ「一法寺」では内山興正老師の講話集が公開されました:
http://blog.goo.ne.jp/ippouji/e/4c69ddf7aab3235baa4b78ebad077009

安泰寺6代目の住職の貴重な音声をユーチューブにもアップさせていただきました:

学道用心集講義「有所得の心を用つて佛法を修すべからざる事」、2017年10月20日

毎月、京都府宮津市にある智源寺専門僧堂で講義をさせていただいています。
次回は11月24日(金)
今回は『学道用心集』の三回目の講義でした:

有所得の心(しん)を用つて佛法を修すべからざる事
右、仏法修行は、必ず先達(せんだつ)の真訣(しんけつ)を稟(うけ)て、私の用心を用いざるか。
況や仏法は、有心(うしん)を以つて得可からず。無心を以て得べからず。但だ操行(そうぎょう)の心と道と符合(ふごう)せずんば、身心未だ嘗(かつ)て安寧(あんねい)ならず。身心未だ安寧ならずんば身心安楽ならず。身心安楽ならずんば、道を證するに荊棘(けいきょく)生ず。所謂(いわゆる)操行と道と合して、如何(いかん)が行履(あんり)せん。心取捨(しんしゅしゃ)せず、心名利(みょうり)無きなり。仏法修行は是れ人の為に修せず。今世人(こんぜにん)の如き、仏法修行の人、其の心と道と遠(とお)くして遠し。若し人(ひと)賞翫(しょうがん)すれば、縦(たと)え非道と知るも、乃ち之れを修行す。
若し恭敬(くぎょう)し讃歎(さんたん)せずんば、是れ正道(しょうどう)と知ると雖も、棄てて修せず。痛(いた)ましき哉(かな)。
汝等(なんじら)試みに心を静かにして観察せよ、此の心行(しんぎょう)、仏法とせんや、仏法に非ずとせんや。恥(は)ずべし恥ずべし。聖眼(しょうげん)の照す所なり。夫(そ)れ仏法修行の者は、尚お自身の為にせず、況や名聞利養(みょうもんりよう)の為に之を修せんや。但だ仏法の為に之を修すべきなり。
諸佛の慈悲、衆生を哀愍(あいみん)するは、自身の為にせず、他人の為にせず、唯だ仏法の常(つね)なり。見ずや、小虫畜類(しょちゅうちくるい)すら、其の子を養育するに、身心艱難(かんなん)、経営苦辛(けいえいくしん)し、畢竟(ひつきょう)長養すれども、父母に於いて終に益なきをや。然れども子を念(おも)うの慈悲あり。小物すら尚お然り、自(おの)ずから諸佛の衆生を念うに似たり。
諸佛の妙法は、唯だ慈悲の一條(いちじょう)のみにあらず、普(あま)ねく諸門に現ず。其の本(もと)皆(みな)然り。既に仏子(ぶつし)たり、葢(な)んぞ仏風(ぶつぷう)に慣(な)らわざらんや。行者(ぎょうじゃ)、自身の為に仏法を修すと念(おも)う可からず、名利の為に仏法を修す可らず、果報(かほう)を得んが為に仏法を修す可からず、霊験(れいげん)を得んが為に仏法を修す可からず、但だ仏法の為に仏法を修す、乃(すなわ)ち是れ道(どう)なり。

 君見ずや、絶学無為(ぜつがくむい)の閑道人、妄想を除かず真を求めず―『証道歌』

 無功徳・廓然無聖・不識 ―菩提達磨と梁武帝の問答

 山僧叢林を歴ること多からず。ただ是れ等閑に天童先師に見えて、当下に眼横鼻直なることを認得して人に瞞ぜられず。すなわち空手還郷す。ゆえに一毫も仏法無し。―『永平広録』

 はなてばてにみてり、一多のきわならんや、かたればくちにみつ、縦横きわまりなし。 ―『弁道話』

 …無智・亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃… ―『般若心経』

「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」―『創世記』3:17-19

普門の「マイ・ラスト・ダルマ・トーク」 (Japanese/English)、2017年10月14日

原文:

【6-9】
 示して云く、海中に龍門と云處ありて、洪波しきりにたつなり。諸の魚ども彼の處を過ぬれば、必ず龍となるなり。故に龍門と云なり。いま思ふ、彼の處洪波も他所にことならず、水も同くしわはゆき水なり。然れども定まれる不思議にて、魚ども彼の處を渡れば必ず龍と成る。魚の鱗もあらたまらず、身も同じ身ながら、たちまちに龍となるなり。衲子の儀式も亦かくのごとし。處も他所にことならねども、叢林に入りぬれば必ずしも佛と成り祖となるなり。食も人と同く喫し、衣も同く服し、飢を除き寒を禦(フセ)ぐことも齊しけれども、只髮を剃り袈裟を着して食を齋粥にすれば、忽ちに衲子と成るなり。成佛作祖、遠く求むべきにあらず。只叢林に入と入ざるとは、彼の龍門を過ると過ざるとの別の如し。亦俗の云く、我れ金を賣れども人の買ふなしと。佛祖の道も亦かくのごとし。道を惜むにはあらず、常に與ふれども人の得ざるなり。道を得ることは根の利鈍にはよらず。人人皆法を悟るべきなり。精進と懈怠とによりて得道の遲速あり。進怠の不同は志しの至ると至らざるとなり。志しの至らざることは無常を思はざる故なり。念念に死去す。畢竟じて且くも留まらず、暫く存ぜる間だ、時光を空くすごすことなかれ。古語に云ふ、倉にすむ鼠み食に飢へ、田を耕す牛草に飽かずと。云心は、食の中にありながら食にうえ、草の中に住しながら草に乏し。人もかくのごとし。佛道の中に有りながら道にかなはざるものなり。名利希求の心止まざれば、一生安樂ならざるなり。

【6-10】
 示して云く、道者の行は善行惡行につき皆おもはくあり。凡人の量る所にあらず。昔し慧心僧都、一日庭前に草を食ふ鹿を、人をして打ち追はしむ。時に或る人問て云く、師慈悲なきに似り、草を惜みて畜生を惱ますか。僧都の云く、しかあらず、吾れ若し是を打ち追はずんば此の鹿ついに人になれて、惡人に近づかん時は必ず殺されん。この故にうちおふなりと。これ鹿を打追は、慈悲なきに似たれども内心は慈悲の深き道理、かくのごとし。

Dogen instructed,
In the ocean, there is a place called the Dragon-Gate, where vast waves rise incessantly. Without fail, all fish once having passed through this place become dragons. Thus, the place is called the Dragon-Gate.
The vast waves there are not different from those in any other place, and the water is also ordinary salt water. Despite that, mysteriously enough, when fish cross that place, they all become dragons. Their scales do not change and their bodies stay the same; however, they suddenly become dragons.
The way of Zen monks is also like this. Although it is not a special place, if you enter a sorin (monastery), without fail you will become a buddha or a patriarch. You eat meals and wear clothes as usual; thus you stave off hunger and keep off the cold just the same as other people do. Still, if you shave your head, put on a kesa, and eat gruel for breakfast and rice for lunch, you will immediately become a Zen monk. Do not seek afar to become a buddha or a patriarch. Becoming one who either passes through the Dragon Gate or not depends only on entering a sorin (monastery), just the same as the fish.
There is a saying in the secular world, “I sell gold, but no one will buy it.” The Way of the buddhas and patriarchs is also like this. It is not that they begrudge the Way; even though it is always being offered, no one will accept it. To attain the Way does not depend on whether you are inherently sharp or dull witted. Each one of us can be aware of the dharma. Slowness or quickness in […]

秋雨の本堂回り、2017年10月6日

二枚目の田んぼの稲の脱穀、三枚目の田んぼの稲刈り、2,017年9月27日