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雪おこし、心おこし、2015年3月11日

菩提(ぼだい)心とは、多名一心なり。竜樹(りゅうじゅ)祖師のいわく、唯、世間の生滅無常を観ずるの心も、また菩提心と名づくと。
(学道用心集)

 菩薩(ぼさつ)として修行するためには、まず必要なのが道心(梵語bodhi-cittaの漢訳、音訳は「菩提心」)です。そして私たちが生きている現代社会においても責任ある立場で自分を、そして社会全体を向上させようと思っている人がいれば、ぜひとも仏教の道心を参考にしていただければ、とも思っています。今回から、数回にわたって道心のありようを参究したいと思います。
 それでは、道心とは何か?
 道元禅師は五十三歳でなくなっているので、決して長生きしたわけではありませんが、その短い生涯の中で膨大な作品の量を残しています。その中でも「道心」は重要なキーワードの一つです。まず上の引用をみてみたいと思います。三十四歳の若さで書いた「学道用心集」の冒頭で「多名一心」としていながら、まずインド哲学の大物でもある竜樹(Nagarjuna)を引用します。レッテルはたくさんあるけれども、中身が一つだというのです。無常を観ずるのが道心だというのです。この定義に対して起こるであろう反論を道元禅師はかなり意識していたようです。
 「無常を感じる? それじゃまるで今はやりの《祇園精舎の鐘の声……》ではないか。仏教の肝心要の心がそんな平易な言葉でかたれられるはずがない!」道元禅師の生きていた仏教界には、そういう声も聞こえてきそうであったかもしれません。

有(ある)が云(わ)く、菩提心とは、無上正等覚心なり、名聞利養に拘(かか)わる可からず、有が云(い)く、一念三千の觀解なり、有が云く、一念不生の法門なり、有が云く、入仏界の心なりと。是(かく)の如(ごと)くの輩(ともがら)は、未(いま)だ菩提心を知らず、猥(みだ)りに菩提心を謗(ぼう)す。仏道の中に於いて遠くして遠し。
 (ある人は道心を「無上正等覚心(むじょうしょうとうかくしん)」といい、名利の心に関(かか)わりがないという。別の人は「一念三千の觀解」といい、また「一念不生の法門」ともいう。あるいは、「入仏界の心だ」という。連中は道心を知りもしない癖に、道心を冒涜する。修行者の中で仏道から最も遠く離れている連中である。)

 道元禅師はその作品中に時おり、人に強烈な批判を浴びせます。それはおそらく、自分自身にも当時の仏教界の批判の矛先が向けられていたからではないかと察します。それはともかく、これらの仏教学者らしい道心の定義を道元禅師は一切否定してしまいます。
 
所謂(いわゆる)菩提心とは、前来云ふ所の無常を觀ずるの心、便(すなわ)ち是れ其の一なり、全く狂者の指(ゆび)さす所に非(あら)ず。
(道心とはやはり、まず先の《無常を観ずる心》であって、あの狂者たちが表現しようとするものとは関係がない。)

 それにしても、「狂者」とまでいうのは少しひどすぎますね。道元禅師はこのとき、顔を真っ赤にしていたのではないでしょうか。どうしてそんなに怒ったのでしょうか。なにしろ、「無上正等覚心」などという定義が間違っていたとはいいにくいのです。仏教大辞典を引けば、道心の語源として出てくるのが、まさにこの「無上正等覚心」ですから。「無上正等覚心」とは般若心経の「阿耨多羅三藐三菩提(あぬったらさんみゃくさんぼだい)」の心であって、菩提心や道心はその略に過ぎません。つまり、道心=無上正等覚心は優等生の正解です。
 道元禅師の狙いは仏教学的・文献的な定義ではないということはいうまでもありません。禅師のいう道心が私たちの生活の中で表現されていなければならないため、若い禅師はあえて仏教学者の定義ではなく、「無常」という日本人なら誰でも身近で親しみやすい表現を選んでいたのだと思います。
 四季の移り変わりの中にも無常を感じるのが日本人です。一方、道元禅師のいう「無常を観じる」ことはそれほど生やさしいことではないのです。まず「感」ではなく、「観」ですね。無常を見抜くことです。何の無常かというと、今、ここ、この私の命です。私の物でもなければ、あなたの物でもない、つかみ所のないこの一瞬の命です。
 これを見抜けば、もはや執着のしようがありません。つかみ所のないものに執着しようとするのは、「狂者」のみです。無常を観じたかどうかの基準は、「名利(みょうり)の念」が起こるかどうかです。本当に無常を見抜いた人なら、当然ながら自分のプライドを捨てているはずです。

時光の太(はなは)だ速やかなることを恐怖(くふ)す、所以(ゆえ)に行道は頭燃(ずねん)を救う。
(時の移り変わりの速さを恐れて、頭が燃えているごとく修行に励む。)

 プライドを捨てて、もえるような気持ちで生きる・・・・・・。それができるのは、「今、私がするしかない」と自覚している人です。明日からではダメです。明日はない、私しかない、やることは今しかできない。

(ネルケ無方著 「生きるヒント33」より)

冬安居あとわずか、2015年3月10日

新著『ありのままでもいい、ありのままでなくてもいい』・動画:摩訶迦葉の頭陀行と、欧米と日本の葬式について(英語)、2015年3月6日

新しい著書が21日に出版されます:

前書きより:
『仏教がすすめている生き方とはどういうものなのか?
 その問に答えるためには、まず「生きることは苦しい」という思いの原因を突き詰めなければなりません。一言で言えば、執着があるから生きることが苦しくなるのです。誰しも「あれが欲しい、これが欲しい」とあれこれを追い求めて生きています。しかしそれが手に入るとは限りません。また、「あれがしたい、これがしたい」と思っても、いつも好きなことができるというわけではありません。むしろ、自分の思う通りにならないことが大半ではないでしょうか。「物足りない」という思いが募ると、人間が苦しくなります。
 「夢」「前向き」「プラス思考」なども、私たちの鼻の前にぶら下がっているニンジンのようなものです。それを必死になって追い求めているうちは生きる苦しさを忘れることができるかもしれませんが、求めているそのものがいつまでたっても手に入らないということがわかれば、その絶望感がなおさら大きいです。
 人間は周りの物ごとばかりに執着しているのではありません。一番厄介な執着は、自分自身に対する執着です。「別に自分に生まれ変わりたい」とか、「ありのままの自分を表現できない」という思いで苦しむ人も少なくないでしょう。あるいは、今はよくても「年をとりたくない」「死が怖い」などという執着もあります。「執着をするのは悪い」という人もいますが、逆に「私には執着がなさすぎて、生きることがつまらない。何かに執着がしたいけど、何もない!」という複雑な執着の持ち主もいます。
 私がこの本で皆さんに送りたいメッセージはごく簡単なものです。
「執着はあってもいいし、なくてもいい。生きることで悩まなくてもいいし、悩んでもいい」
 「自分」「愛」「仕事」「親と子」「老と死」など、執着の対象となる物ごとは数えきれません。「執着があってはならない」というのも、ひとつの執着に過ぎないから、執着があるならあったで、その執着と上手に付き合いながら生きていきましょう。しかし執着がなければないほど、悩みの種も減りますう。執着がないからといって、それで悩む必要はないでしょう。』

以下は、摂心明けの放参、本堂の裏と表で撮影した動画です。堂頭が英語で、提唱で話していた正法眼蔵・行持の摩訶迦葉の頭陀行と、欧米と日本の葬式について説明しています。

二〇〇二年、アメリカのジョージア州の火葬場の事件について、ウィキペディナの英語版が詳しいです:
en.wikipedia.org/wiki/Tri-State_Crematory

洗濯日和@安泰寺、2015年2月24日

覚安の出家得度、2015年2月11日

2012年から安泰寺で安居しているアメリカン人の覚安は四度目の春を前にして、いよいよ出家得度に踏み込みました。写真はこちら:
覚安の出家得度

マイクの電源が入っていなかったため、音声はありません。式の最後の数分間:

安泰寺でダンマパダ(法句経)の輪講:最終章「バラモン」、2015年2月11日

安泰寺では毎冬、広間のストーブを囲んで輪講を行っています。今年のテーマはダンマパダ(法句経)でした。安居の修行者は交代で岩波文庫のテキスト(中村一注「真理の言葉」)を読み、自分で解釈をしてから毎日の生活に照らし合わせています。今日は最終回、「バラモン」についての話でした:

ネットでもダンマパダは読めます。例えば青空文庫にも収められています。
輪講の席で最初はテキストを読み上げ、注釈を述べるだけですから、出だしはやや退屈です:

さて、ここからが勝負:テキストの「バラモン」と自分自身の生活態度を比較した場合、はたしてどうなるのか?
お正月休みの過ごし方から始まります:

ある時とつぜん、両親の口からお墓の相談が・・・
安泰寺の山で「樹木葬」というオプションもあったのに、もったいない!

安泰寺の修行仲間に切磋琢磨されながら、先輩の姿勢に学んでいくというのが修行道場の大前提です。そこではパッとしない先輩であっても、一応立てておきましょう。

仏法の問題は癒しの言葉を語るのではなく、いかに偽りのない実践をするか、です。最近売れている仏教書の話。

寒行托鉢中に、不良おばちゃんに「あんたは幸せか?」と絡まれたエピソード。修行僧といえども、汚ければいいというわけではありません。

ダライ・ラマに聞いてみました:「性欲をどうすればいいか?」
そこからさらに話が脱線して、修行生活の様々な裏事情が表に・・・
愛欲と修行の狭間で苦しむ安泰寺の安居者の話。

「お寺と温泉」って、そんな関係があったのでしょうか。
その話は嘘っぽくても、以外に本当かも?
「切り離せないものを、できれば切ったほうが・・・」

またまた、修行仲間のネタで盛り上がりました。

このあとも話は続きましたが、残念ながらメモリーカードはこの時点でイッパイになってしまいました。

冬の一日摂心、2015年2月10日

本堂をぐるっと、叢林全体で法戦式の慣らし、ついでに本を紹介:「禅の言うとおりにやってみよう」「私が感動したニッポンの文化」「ニッポンを発信する外国人たち」「大学生に語る 資本主義の200年」「MON-ZEN」、2015年2月9日

星覚さんって、どんな人?実は、喫茶店のマスターでもあるのだそうです:
「雲水喫茶」
ベルリンにある星覚さんの禅道場「UNDO」のフェイスブックはこちら:
facebook.com/undoinberlin

「Monzen」はドイツの映画通の間、かなり話題になりました。
この映画の監督は大の日本好きで、他にも日本を題材とした作品を作っています:
ドーリス・デリエ (ウィキペディア)
実は「Monzen」でカメラマンを勤めていたWerner Penzelという日本在住のドイツ人は去年、安泰寺で新たな映画を撮り、今年が来年から映画館で上映される予定です。日本でも見れると思います。
こちらにその映画の撮影風景がご覧になれます:

冬の夕方、本堂の中と外・安泰寺の首座(しゅそ)と辨事(べんじ)は法戦式の練習中、2015年2月8日

英語でトークと問答:ネルケ無方がインターネット禅堂 “Treeleaf” の坐禅会に参加

先月、安泰時の住職はバーチャルな禅堂 Treeleaf Zendo (木之葉禅堂)に招待され、坐禅のあとにトークをし、参加者とネットを通じて問答を交わしました。30分の坐禅に続き、90分の英語の話です: