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今日のテキストの原文は:
粥時の菜を調ふる次に、今日齋時に飯羮等に用うる所の盤桶(ばんつう)並に什物調度(じゅうもつちょうど)を打併(たびゃう)して、精誠浄潔(せいせいじょうけつ)に洗灌(せんかん)し、彼此(ひし)高處(こうじょ)に安ずべきは高處に安じ、低處に安ずべきは低處に安ぜよ。高處は高平に、低處は低平。
キョウ(木+夾)杓(きょうしゃく)等の類、一切の物色(もつしき)、一等に打併して、眞心(しんしん)に物を鑑(かん)し、輕手(けいしゅ)に取放(しゅほう)す。
然して後に明日の齋料(さいりょう)を理會(りえ)せよ。先ず米裏に蟲有らんを擇べ。緑豆(りょくず)・糠塵(こうじん)・砂石等、精誠に擇べ。
米を擇び菜を擇ぶ等の時、行者(あんじゃ)諷經(ぶぎん)して竈公(そうこう)に囘向(えこう)す。
次に菜羮(さいこう)を擇び物料(もつりょう)を調辨(ちょうべん)す。
庫司に隨いて打得(たとく)する所の物料は、多少を論ぜず、麁(鹿+鹿+鹿)細(そさい)を管せず、唯だ是れ精誠に辨備するのみ。切に忌(い)む。色を作して口に料物の多少を説くことを。
竟日(ひねもす)通夜(よもすがら)、物來りて心(むね)に在り、心(むね)歸して物に在り。一等に佗の與(ため)に精勤辨道す。
三更(さんこう)以前は、明曉(みょうきょう)の事を管し、三更以來は、做粥(さしゅく)の事を管す。
當日の粥了(おわ)らば、鍋(か)を洗い飯を蒸し羮(こう)を調う。
齋米(さいべい)を浸(ひた)すが如きは、典座水架(すいか)の邊を離るること莫(な)れ。明眼(めいげん)に親しく見て、一粒(りゅう)を費さず。如法に淘汰せよ。
鍋に納れて火を燒き飯を蒸す。
古に云く、「飯を蒸す。鍋頭を自頭と爲し、米を淘る。水は是れ身命なりと知れ」と。
飯を蒸し了らば、便(すなわ)ち飯ラ(竹+羅)裏(はんらり)に收め、及ち飯桶(はんつう)に收めて、擡槃(ばんだい)の上に安ぜよ。
菜羮(さいこう)等を調辨(ちょうべん)すること、應に飯を蒸すの時節に當るべし。
典座親く飯羮(はんこう)調辨の處在を見、或は行者を使い、或は奴子(ぬす)を使い、或は火客(こか)を使い、什物(じゅうもつ)を調えしめよ。
近來は大寺院に、飯頭(はんじゅう)・羮頭(こうじゅう)有り。然れども是れ典座の使う所なり。
古時は飯頭羮頭等無く、典座一管(いっかん)す。
凡(およ)そ物色(もつしき)を調辨するに、凡眼(ぼんがん)を以て觀ること莫れ。凡情を以て念(おも)うこと莫れ。
一莖艸(いっきょうそう)を拈(ねん)じて、寶王刹(ほうおうせつ)を建て、一微塵(いちみじん)に入いて、大法輪を轉ぜよ。
所謂(いわゆる)、縱(たと)えフ(艸+甫)菜羮(ふさいこう)を作るの時も、嫌厭輕忽(けんえんきょうこつ)の心を生ずべからず。縱え頭乳羮(ずにゅうこう)を作るの時も、喜躍歓悦(きやくかんえつ)の心を生ずべからず。既に耽著(たんじゃく)無し、何(なん)ぞ惡意(おい)有らん。然らば則ち麁に向うと雖も全く怠慢無く、細(さい)に逢(あ)うと雖も彌(いよいよ)精進有るべし。
切に物を遂うて心を變ずること莫れ。人に順(したが)いて詞(ことば)を改むるは、是れ道人に非ざるなり。
勵志至心(しいしん)に、浄潔(じょうけつ)なること古人に勝(まさ)れ、審細(しんさい)なること先老に超えんことを庶幾(こいねがふ)べし。
其の運心(うんしん)道用(どうゆう)の體(てい)たらくは、古先(こせん)は縱(たと)ひ三錢を得るときは、而(すなわ)ち(艸+甫)菜羮を作るも、今ま吾(わ)れ同く三錢を得るときは、而(すなわ)ち頭乳羮を作らんと。
此の事難(なん)爲(に)なり。所以(ゆえ)は何(いか)ん。今古殊異(しゅい)にして、天地懸隔(けんかく)なり。豈(あ)に肩を齋(ひと)しくすることを得る者ならんや。
然れども審細(しんさい)に辨肯(冖+月)するの時は、古人を下視(あし)するの理、定(さだ)んで之れ有り。
此の理、必然なるすらを、猶(な)お未だ明了ならざるは、思議(しぎ)紛飛(ふんぴ)して、其の野馬(やば)の如く、情念奔馳(ほんち)して、林猿(りんえん)に同じきを卒由(もつて)なり。
若(も)し彼の猿馬(えんば)をして、一旦(たん)退歩返照(たいほへんしょう)せしめば、自然(じねん)に打成一片(だじょういっぺん)ならん。是れ及(すなわ)ち物の所轉(しょてん)を被(こうむ)るとも、能(よ)く其の物を轉ずるの手段なり。
此の如く調和浄潔にして、一眼兩眼を失すること勿(なか)れ。
一莖菜を拈じて丈六の金身と作し。丈六の金身を請して一莖菜を作す。
神通及び變化、佛事及び利生する者なり。
已に調ひ調へ了て已に辨じ、辨じ得て那邊(なへん)を看し這邊(しゃへん)に安(お)け。