「仏教と日本の現代社会」にまつわる質問
1. お宗派は何ですか。
「曹洞宗」
2. どちらの寺院に勤めていますか。
「安泰寺」
3. 何年ぐらい僧侶をしているんですか。
「25年間」
4. どうして僧侶をしているんですか。僧侶になった理由は?
「簡単に言えば、高校生の頃に坐禅と出会い、それに魅せられた。鈴木大拙などの著書を読んで、将来日本で禅僧になる夢を持つようになった。大学で日本学を勉強してから、京都での留学を経て、縁あって安泰寺で出家得度。詳しくは拙著『迷える者の禅修行』を参照。」
5. 現代社会では、人々が宗教への関心を徐々に失っていくに伴って、宗教的な活躍も減っているとよく言われていますが、そう思いますか。どうしてですか。
「人々が関心をなくしたから宗教的な活躍が減ったのではなく、逆に本来の宗教的な活躍がされていないため、人々の関心が薄れただけの話である。徳川時代の幕府の政策であった檀家制度の上には、いまだに大半の僧侶が胡坐をかいているのが一番の原因。それに加えて、日本の寺院が明治以降、世襲制になり、実質私物化されたしまったことも関係している。」
6. 忙しい生活を送っている現代人の人生には、仏教が実際に役に立つと思いますか。(「はい」なら、どのように役に立ちますか。)人々が現代社会の問題(いじめや自殺や忙しさなど)が仏教を通して乗り越えられると思いますか。
「「人々」や「現代社会」が何かの問題の「乗り越える」ために仏教を利用されたくないが、各々が檀家制度の残骸にすぎない既成仏教とは違う、本来の仏教に目を向けたら、生きるためのヒントはいくらでも得られると思う。」
7. 昔からある伝統に結んでいる宗教として、仏教が日本でなくなったら、それは社会にどんな影響を与えると思いますか。
「この問題については、拙著『日本に宗教は要らない』の第4章「もし日本から仏教がなくなったら・・・」に詳しい。ご参照まで添付。」
8. 現代社会では仏教を守るために、僧侶がたがどういう活躍をしているんですか。どのように一般の人々に興味を向上させますか。それが足りると思いますか。
「最近の若い僧侶(お寺の副住職など)は様々な活躍を試みている。お寺でヨガやコンサートを開催したり、本堂で婚活パーティーをしたり、地域でボランティア活動をしたり、「坊主バー」のような変わったことまで、いろいろやっているのは事実。だが、私はそこに「信念」を感じられない。たとえて言うなら、イタリアンレストランで展覧会もやり、コンサートもやり、定期的に中華や和食のクッキング・スクールもするが、肝心なピッツァもスパゲッティも作れないありさま。なぜなら、問い4(「あなたはなぜ僧侶になったか」)にはっきりした答えを持っている僧侶が少ないからだ。何とかして一般人のニーズに答えようとするけれども、仏教者としての主張は皆無である。イタリアンだけが作れない、イタリアン料理屋のように…」
マインドフルネスとお茶の文化について:
「茶の湯とは只(ただ)湯をわかし茶をたてて呑むばかりなるものと知るべし」(千利休)
「飛石のうち、一つだけ一寸(ちょっと)高いが、倅(せがれ)は気が附かないと見えます」(利休)
「己も常々さう思つてゐた所なのだ。親父は流石にカンが鋭い」(道安)
「さては、道安め、己の言葉を聞いたと見える。だが、それにしても、よく気が附いて、こちらが帰るまでに直したものだ」(利休)
(鈴木大拙著『禅と日本文化』より引用)
坐禅の資料:
足の組み方(1)
足の組み方(2)
足の組み方(3)
足の組み方(4)
足の組み方(5)
足の組み方(6)(英語)
足の組み方(7)(英語)
腰について(1)(英語)
腰について(2)(英語)
手の組み方(英語)
正身端坐(英語)
腰について(2)(英語)
居眠り対策(英語)
昔、安泰寺HPのために書いたシリーズがあります:
大人の修行
マインドフルネスの問題点と正しい坐禅について、特に以下のページで触れています:
「マインドフル」なお心、 もう忘れてしまいなさい
心猿意馬
さがしものは何ですか
正しい坐り方
綿屑みたいな顔はみっともない!
坐禅を好きになること
「坐禅儀」の各バージョン:
原(たず)ぬるに夫(そ)れ、道本円通、争(いか)でか修証を仮(か)らん。宗乗(しゅうじょう)自在、何ぞ功夫を費さん。況んや全体逈(はる)かに塵埃(じんない)を出(い)づ、孰(たれ)か払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。大都(おおよそ)当処(とうじょ)を離れず、豈に修行の脚頭(きゃくとう)を用ふる者ならんや。然れども、毫釐も差有れば、天地懸(はるか)に隔り、違順(いじゅん)纔(わず)かに起れば、紛然として心を失す。直饒(たとい)、会(え)に誇り、悟(ご)に豊かに、瞥地(べつち)の智通(ちつう)を獲(え)、道(どう)を得、心(しん)を(の)明らめて、衝天の志気(しいき)を挙(こ)し、入頭(にっとう)の辺量に逍遥すと雖も、幾(ほと)んど出身の活路を虧闕(きけつ)す。矧(いわ)んや彼(か)の祇薗(ぎおん)の生知(しょうち)たる、端坐六年の蹤跡(しょうせき)見つべし。少林の心印を伝(つた)ふる、面壁九歳(めんぺきくさい)の声名(しょうみょう)、尚ほ聞こゆ。古聖(こしょう)、既に然り。今人(こんじん)盍(なん)ぞ辦ぜざる。所以(ゆえ)に須(すべか)らく言(こと)を尋ね語を逐ふの解行(げぎょう)を休すべし。須らく囘光返照の退歩を学すべし。身心自然(じねん)に脱落して、本来の面目現前せん。恁麼の事(じ)を得んと欲せば、急に恁麼の事を務(つと)めよ。
夫れ参禅は静室(じょうしつ)宜しく、飲食(おんじき)節あり、諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思はず、是非を管すること莫れ。心意識の運転を停め、念想観の測量(しきりょう)を止めて、作仏を図ること莫(なか)れ。豈に坐臥に拘(かか)はらんや。尋常(よのつね)、坐処には厚く坐物(ざもつ)を敷き、上に蒲団を用ふ。或(あるい)は結跏趺坐、或は半跏趺坐。謂はく、結跏趺坐は、先づ右の足を以て左の腿(もも)の上に安じ、左の足を右の腿の上に安ず。半跏趺坐は、但(ただ)左の足を以て右の腿を圧(お)すなり。寛(ゆる)く衣帯(えたい)を繋(か)けて、斉整(せいせい)ならしむべし。次に、右の手を左の足の上に安(あん)じ、左の掌(たなごころ)を右の掌の上に安ず。兩(りょう)の大拇指(だいぼし)、面(むか)ひて相(あい)拄(さそ)ふ。乃(すなわ)ち、正身端坐して、左に側(そばだ)ち右に傾き、前に躬(くぐま)り後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ。耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す。舌、上の腭(あぎと)に掛けて、脣歯(しんし)相(あい)著け、目は須らく常に開くべし。鼻息(びそく)、微かに通じ、身相(しんそう)既に調へて、欠気一息(かんきいっそく)し、左右搖振して、兀兀として坐定(ざじょう)して、箇(こ)の不思量底を思量せよ。不思量底、如何が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。所謂(いわゆる)坐禅は、習禅には非ず。唯、是れ安楽の法門なり。…『普勧坐禅儀』
參禪は坐禪なり。坐禪は靜處よろし。坐蓐あつくしくべし。風烟をいらしむる事なかれ、雨露をもらしむることなかれ、容身の地を護持すべし。かつて金剛のうへに坐し、盤石のうへに坐する蹤跡あり、かれらみな草をあつくしきて坐せしなり。坐處あきらかなるべし、晝夜くらからざれ。冬暖夏涼をその術とせり。
諸縁を放捨し、萬事を休息すべし。善也不思量なり、惡也不思量なり。心意識にあらず、念想觀にあらず。作佛を圖する事なかれ、坐臥を脱落すべし。飮食を節量すべし、光陰を護惜すべし。頭燃をはらふがごとく坐禪をこのむべし。黄梅山の五祖、ことなるいとなみなし、唯務坐禪のみなり。坐禪のとき、袈裟をかくべし、蒲團をしくべし。蒲團は全跏にしくにはあらず、跏趺のなかばよりはうしろにしくなり。しかあれば、累足のしたは坐蓐にあたれり、脊骨のしたは蒲團にてあるなり。これ佛佛祖祖の坐禪のとき坐する法なり。
あるいは半跏趺坐し、あるいは結果趺坐す。結果趺坐は、みぎのあしをひだりのももの上におく。ひだりの足をみぎのもものうへにおく。あしのさき、おのおのももとひとしくすべし。參差なることをえざれ。半跏趺坐は、ただ左の足を右のもものうへにおくのみなり。衣衫を寛繋して齊整ならしむべし。右手を左足のうへにおく。左手を右手のうへにおく。ふたつのおほゆび、さきあひささふ。兩手かくのごとくして身にちかづけておくなり。ふたつのおほゆびのさしあはせたるさきを、ほそに對しておくべし。正身端坐すべし。ひだりへそばだち、みぎへかたぶき、まへにくぐまり、うしろへあふのくことなかれ。かならず耳と肩と對し、鼻と臍と對すべし。舌は、かみの顎にかくべし。息は鼻より通ずべし。くちびる齒あひつくべし。目は開すべし、不張不微なるべし。かくのごとく身心をととのへて、欠氣一息あるべし。兀兀と坐定して思量箇不思量底なり。不思量底如何思量。これ非思量なり。これすなはち坐禪の法術なり。坐禪は習禪にはあらず、大安樂の法門なり。不染汚の修證なり。『正法眼蔵坐禅儀』
夫れ学般若の菩薩は、先ず当に大悲心を起こし、弘(ぐ)誓願を発し、精(たけ)く三昧を修し、誓って衆生を度し、一身の為に独り解脱を求めざるべし。乃ち諸縁を放捨し、万事を休息し身心一如にして、動静間無(へだてな)く、其の飲食を量って、多からず少なからず、其の睡眠を調えて節せず、恣にせず。坐禅せんと欲する時、閑静處(かんじょうしょ)に於いて厚く坐物を敷き、寛(ゆる)く衣帯を繋け、威儀をして齊整(せいせい)ならしめ、然る後、結跏趺坐せよ。先ず右の足を以って、左のももの上に安じ、左の足を右のももの上に安ぜよ。或いは、半跏趺坐も亦た可なり。但左の足を以って、右の足を圧すのみ。次に右の手を以って、左の足の上に安じ、左の掌を右の掌の上に安じ、両手の大拇指の面をもって相拄(あいささ)え、徐徐として身を挙し、前後左右、反覆揺振(はんぷくようしん)して、乃ち身を正しうして端坐せよ。左に傾き右に側(そばだ)ち、前に躬まり後に仰ぐことを得ざれ。腰脊頭頂(ようせきずちょう)骨節をして相拄え、状(かたち)浮屠(ふと)の如くならしめよ。又た身を聳(そび)やかすこと太(はなは)だ過ぎて、人をして気急不安(ききゅうふあん)ならしむることを得ざれ。耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対し、舌は上の顎(あぎと)を拄え、唇歯相著(しんしあいつけ)けしむることを要せよ。目は須らく微(すこ)し開き、昏睡を致すこと免るべし。若し禅定を得れば其の力最勝なり。古え習定の高僧有り、坐して常に目を開く。向(さ)きの法雲円通禅師も亦た、人の目(まなこ)を閉(と)じて坐禅するを訶して、以って黒山の鬼窟と謂えり。蓋(けだ)し深旨(じんし)あり、達者焉(これ)を知るべし。身相既に定まり、気息既に調い、然して後(のち)臍腹(さいふく)を寛放(かんほう)し、一切の善悪都て思量すること莫れ。念起らば即ち覚せよ。之を覚すれば即ち失す。久々に縁を忘すれば、自ら一片と成る。此れ坐禅の要術なり。窃(ひそ)かに謂うに坐禅は乃ち安楽の法門なり。…『禅苑清規・坐禅儀』