これが私の生きる道

健雄

Muho

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(ルカによる福音書11:9-10)

 これは私の通っていた大学の入学式と卒業式の両方で、式辞で学長からいただいたメッセージです。「これが私の生きる道」という文集のテーマをいただいたとき、すぐにこのメッセージが私の中に思い浮かびました。すなわち、私の生きる道は求道者としての道なのだと思います。具体的には、いただいた命をそのまま背伸びせず、たゆまずそのまま生きることだと思います。求道者とは、人間としてありのままに衣食住を大切にして生きることだと思います。「道」とは、そこにあるはずのものですが、それは私の認識を越えているもので、それ自体をつかむことはできません。しかし心臓が動いている、呼吸をしている、太陽が昇っているという事実があることは確かなのです。私の意図、思いの範囲外のところで世界は回っているようですが、それが私にはなかなか分かりません。しかし、天地に頂いた命を何とか最大限に美しく咲かせたい、そこに一歩でも近づきたいという誓願だけは、常に持って生きていたいと思います。これは人間の性でありますが、うっかりするとどうしても、自分の意図で生きていると勘違いしてしまいますが、そこは何度も懺悔を繰り返すことで、頂いた命をそのまま生きるという誓願、発心の心を何度も見直して生きていきたいと思います。先の聖書の箇所にもあるように「道」は得ることはできるか、どうか分かりませんが、門だけは常にたたき続ける、発心の心だけは持ち続ける、そんな生き方が私の生きる道であると思います。門を叩かなければ、門を開けて頂ける可能性は0%ですが、門をたたき続けていれば門を開けて頂ける可能性は0%以上にはなるかもしれません。どれだけ辛抱して門を叩き続けられるかが、もう一つの大切なことだと感じております。

 私の生きる道を、具体的に安泰寺の生活に引きつけて考えると、一つの動作、一呼吸一呼吸を大切にして丁寧に、親切に、美しく行うことだと思います。それは、歩き方、スリッパの並べ方、正座の仕方、坐禅の仕方、礼の仕方、話し方、眠り方など24時間全ての動作において当てはまることだと思います。「修行するぞ!」と意気込んだところで、それは私の頭の中の「修行」になり仏道修行にはならないと思います。その点によくよく気をつけて、頂いた命を頂いた通りに咲かすことのできるよう誓願、精進、懺悔、感謝だけは忘れずに生きていきたいと思います。

 求道の方向性の道筋は道元禅師やその他の祖師の方々、他にも聖書などが照らしてくださっているので、私自身は、それだけを頼りにして頂いた命の灯を、背筋を伸ばして、点して生きたいと思っております。