大人の修行


「いい年をした大人が山寺で何やってるの・・・」先だって、妹と久しぶりにメールで会話したときにいわれた言葉である。私が安泰寺で行われている1日15時間の座禅や命の危険すらある森林作務のことなどを書いて送っても中々、信じてくれないのである。しかし、京都で直接会ったときには「お兄ちゃん、大人になったねえ」としみじみいわれて、面映ゆいような情けないような気分を味わったのだった。私ってそんなに子供じみて見えていたのか?

どうやら幸いにして私だけでもないらしく、多くの成年日本人に見られる子供っぽい依存がしばしば欧米人から指摘されているという。いまだに根強く残っている終身雇用や年功序列に典型的に見られるように、日本の社会システムにいえることは、一端、そうした集団に所属すると個人としての強さを去勢して、その社会システムに養ってもらうという構図になることではないかと思う。いわば社会が子供を抱きかかえるお母さんとしての役割を果たしているわけだ。欧米の人々から見ると、日本人の大人が自立しきれていない子供に見えるというのは、この辺にも原因がありそうである。

安泰寺に修行にきている長期参禅者の多くの人は、そうしたお母さん的な抱きかかえてくれる日本的社会システムを何らかの意味で拒否してきた人々だともいえる。そうした日本的集団にどっぷりつかってきた私が自立しきれていない大人として安泰寺に上山して早くも1年。同時期に修行している参禅者のほとんどが年下であるにもかかわらず、皆、私よりはるかに年長に見えるというこの不思議。自分がいかに主体的に判断し実行に移す力に欠けているか実感し続けた1年でもあった。堂頭さんから厳しい叱責を受けることもしばしばで、大人が集う安泰寺の中の幼稚園児といった有様であるが、自分が遅ればせながら大人として成長を遂げるのに最もふさわしい場所を選んだのだと実感している。

安泰寺では自分の修行は自分自身で行じなければならない。安泰寺をゲストハウスや農業コミュニティにしてしまう人もいるが、度重なる接心や厳しい作務によってそうした思い込みは壊され、皆、その人なりの真の禅道場としての安泰寺を発見することになる。安泰寺での大人の修行は快適さを求める自我意識から安心を奪い、さらに広大な主体性に目を開かせようとする。それは時には不安な、場合によっては恐ろしいことでさえあるかもしれないが、そうした挑戦が行われない場合、大人の修行は冒涜され私が自分の中に眠る「大人の可能性」に気付くことは決してないに違いない。

「自分が今生きているこの瞬間の命のほかに期待するものがあれば、必ず失望するであろう」とは堂頭の言葉だ。私たちは全てを与えられており自分の命を十全に生きるのに他の物に頼らなくてもよいのだと気づくことは究極の意味での解放でもある。それが大人になるということの本当の意味だろう。そして、道元禅師が八大人覚でも説いているように、このような大人の禅修行を通じて八つの徳性が心身に輝きだすとき、人間としての幼年期が終わり真の「大人」としての自覚の道が開けるのだろうか。

神田覚