大人の修行。

自然

Muho


私の修行させて戴いてる安泰寺では「大人の修行」をする場であり「大人の修行」を作る場であります。そこで「大人の修行」とは何の事なのか考えてみたいと思います。言葉は話せば分かるものですが分かっている事と実際は違う事が往々にしてあるものです。真面目にやれ、と言われても何を指してるのか自分が察する事と他人が思う事は違っていてもおかしくないものです。言葉で言う事とその人の思っている感じとズレが大きい事も結構あるように思います。この人はこう言っているけどこう思っているのではないのか?と言う事はよくあることです。少し話がズレ始めたのでこの辺でテーマに戻りたいと思います。

「大人」とは「子供」というコインの裏か表であり人が「大人」と言うときその裏には「子供」がいます。肉体的な事であろうと精神的な事であろうと或いは単純なポジティブなイメージかネガティブなイメージとして「大人」「子供」は使われますが「子供の~」ではなく平均年齢20代から30代の「大人の~」でありますからポジティブな意味であります。

その次に来るのは「修行」。そこで、修行に大人も子供も無い。とも思うものですが、修行に対する姿勢に良し悪しはあり得ると思うものです。そのように読みますと、問われるものは修行の姿勢であると思います。その姿勢は個性である場合が多く、その部分をああだこうだ言うのが親であり、オトナであったのを鑑みると確かに宗教の管轄とも言えるのかも知れませんが、端的に具体的な行為の中に人に不快を与えたり、非効率であったり、礼儀を欠いている場合に心の中身がどうこう言う以前に指摘されるものです。そのように考えるとその場その時に必要とされる行為を出来る者が大人であると思います。

回りくどく、読むに耐えない文章へと移行していると思いますのでこの辺で結論付けますと「大人」とはその時、その場の文脈を読み、適切に行為できる人の事であると思います。知らない、出来ない、のなら教えてもらう者、出来ない者として良く見て自分に出来るベストを尽くす事であります。
「修行」とは修める(身につける、整える)行ないですから三度の食事を規則正しく食べ、寝て、起きて、働く。それだけでも、修行と読んでも良いとも思います。お寺で生活しなくても規則正しく仕事の技能を磨き、働いていればそれも修行であると思います。そこで再び安泰寺での「大人の修行」とは何なのか?と言いますと履物を揃え、開けたら閉め、坐
禅する時に坐禅をする等の事を丁寧にきっちりと行う事、と言えると思います。

時間は放っておいても過ぎていきます。ぼんやりと過ごす事も生きていればあるものでありますが、「今やるべき事」それをきっちりと丁寧に行えるよう勤めて行きたいと想う次第であります。
2015、11、14 。
慈念。