2013年度安泰寺文集

雄大

Muho


長かった夏もいつの間にか終わり、雨に混じるあられに冬の足音が聞こえるこの頃ですが、なんといっても無常迅速、時の過ぎゆく早さに恐れ入ります。
思い起こせば去年の夏の終わりに安泰寺に来てからというもの、これまで普通の大学生をやっていた私にとっては目新しい経験ばかりが、それこそ矢のように、次々と生活の中に入り込んできました。日常の作務の中だけでも、道具や機械の修理、田んぼ、畑などの野良仕事、いつの間にか今年に至っては林業のような事にまで携わるようになっています。そのような現場での作業、生活を通じて仏道を模索して行く中で、私自身の狙い所、目的意識と言ったようなものは二転三転、どのような動きであったか、捉えがたいほどダイナミックに変異してきました。そんな私が今年の文集において「これが私の生きる道」などと大それた事を堂々と語れるはずもなく、むしろこちらとしては「どれが私の生きる道?」と言った有様です。
もちろん、そもそものところ、「これが私の生きる道」と言って大々的に将来の予定を野放図に書き散らしたり、自分の頭に描いた夢や野望に燃えるというのは全く分野の違う話であります。少なくとも、ここ安泰寺で仏道の中に見いだす自己の道と言うのであれば、自分自身が今ここで身を捧げる生活から離れた話は出来るはずがありません。というのも、安泰寺の生活においては、自分の命をつなぐ過程が非常に簡明であります。そのため、私の生きる道、と言う物がいかに多くの物に依存的な性質を持っているのか、という面に目を向けざるを得ないのです。例えば春に植えた稲や野菜がどのように我々の口にはいるのか、という最も根本的な部分であれば、おそらく安泰寺で数ヶ月過ごせば誰でも明らかに理解することが出来るでしょう。さらに言えば、それのみに止まらず、どのようにして''今''という結果が成立し得たのか、と、あらゆる場面で各々が考え得る生活を日々行っているはずなのです。そのような縁起によって成り立つ今此処の自分自身について、独立的に「これが私の」と言うことは、少なくとも私にとって、どうしても居心地が悪い表現になります。
細かい表現の捉え方など、どうでもよいことに思えるかも知れませんが、昨年、安泰寺に来たばかりの時分の私にとっては「私の生きる道」といえば、よりオリジナルで、ユニークで、多分に自己に依るものであるべき、というような考えであったような記憶があります。そのやり方で行けば「これが私の生きる道」と言う同じ言葉を用いても、それは独立した意味での表現であり、あくまで他人と比べた上での自分の物でしかないのです。あたかもそれが自分の所有物であるかのような、このフレーズの認識は世間的にも、ほぼ違い無いのではないでしょうか。それゆえ、私が今思うところの「これが私の」という言葉の背景に存在する、その成り立ちの過程の複雑さを含めた上での表現との違いを少しでも明確に表したいと思うのです。
いずれにせよ他をたてた上で、そこから別れて自分の領域のみを語るのであれば、仏法についてのほんの少しでも表すのは難しくなる事は今更述べるまでもありません。例えば「米のことは知らないが、畑の責任者として野菜の収穫はきちんと面倒を見る」と言うのであれば仏道としての修行にはならないでしょう。せいぜいこなれた畑仕事が出来るようになるだけの、良く言えば鍛錬、悪く言えば自分勝手で他人に甘えた生活にしかなりません。田圃で精一杯働く人が居るからこそ、自分が畑で働けるのであって、同じように、畑で自分が精一杯働くからこそ、米を作るために他の人が働けるのです。いずれも生活に欠くことの出来ないものですから、どちらであっても、万が一どうしても上手く行かなければ、他方を手伝わざるを得ないでしょう。そう考えると、安泰寺でどのような作務をしようと、米を作っていない、野菜を作っていないとは言えないはずです。もちろん同じ理由において、自分が人より野菜を作ったとも言えないのです。要するに、安泰寺においての「これが私の」といえるような在り方という物は、私の場合ではありますが、多分に他人や環境に依存的である故に何一つとして具体的に言い表すことが出来ないのです。逆に言えば、周りの環境全てに影響されて成り立った今の生き方それ自体を、どのような形であれ、自分が納得するしないに関わらず、私の生きる道として抽象的に捉えなければ仏法としては嘘になります。
そしてまた、過去のことであれば、アルバムを見返すように、あれが私の生きた道であったと言えるでしょうし、加えて未来は全くの未知数であり、そこには、そこでまた縁によるあり方が今は計り得ない形で成立するのだろうと言えるでしょう。しかし上で述べたように、今の自分自身のあり方は、自分がどう思おうと絶対的にそうなのであり、それ以外に今の自分のあり方は無いはずなので、過去や未来在り方であっても、そのどれか一つのみを抜き出して、コレ、ソレが俺の生き方!と息まくことは仏法をねらう限りは出来ないことになります。過去であれ未来であれ、全ての時間はその時その時でそれ以外無い在り方になるはずだからです。とすると可能性として私が「"これ"が私の生きる道」と限定的に言えるのは、全くの今現在でのみであります。事実私が感じるところの「これが私の生きる道」と言う物は、自分がそう感じればいつでも、その通り間違いなく私の生きる道なのです。もちろんすでに述べたように、私が感じなくてもそうなのですが、私の生きる道はコレじゃない、と感じるような瞬間は本音を言えば数えきれないほどあります。しかし、そのように現在を否定的に捉えている間は、今ここにある唯一の自分の存在の在り方を否定して勝手な妄想の自分を生きてしまっているのです。これこそまさに無明であると言えるでしょう。
ともすると、人間いつにおいても享楽的な場面でのみ「これこそ私の生きる道」であるように感じてしまうものです。私なんかはもちろん、大きな作業を終えて、典座をやり終えて、放参を明日に控えた開放感と共に「これが私の生きる道!」なんてのはしょっちゅうです。そこで大事な部分になるのが、様々な凡夫の事情を抜きにして、刻々移りゆく''今''を全て自分の生きる道とする生活態度であると思います。朝四時前にうるさい鐘で起こされて頭を抱えながら暖かい布団から出る時、台風前に作物の被害を最小限にするために畑を駆けずり回る時、「自分が捉える良い悪いひっくるめた全ての''いま''、そこで、それが自分の生きる道」であるという生活態度です。逃げたくなるような苦労をしても、種を植えるから収穫の喜びがあることを知り、今の苦労を後の喜びと同時に観じるなかで生活一つ一つを修めていく、刻々矢のように過ぎゆく''今''、''今''、"今"をきっちり現実として行じてゆくと言うところで、現在私が言い得る「これが私の生きる道」という形が初めて成立し得るようです。自分が思っても思わなくても、その時それが自分の生きる道であり、それ以外に自分の人生は存在しない。言葉にすれば抽象的であるが故に頼りなく思える表現ですが、仏教としての本来の強みはこの抽象性にこそあるのだと最近思うのです。絶対的価値観と言う物は抽象的な捉え方によってのみ正しく存在するからであり、具体化したその瞬間に相対的に捉えうる対象になってしまうためです。だからこその帰命尽十方無碍光如来、只管打坐。これをしっかり生活の標準として訓練することをもっぱら狙っています。結論として、その時それが私の生きる道、これが私の生きる道。ということです。

雄大