恵光

 今年はトライアルを含めた長期参禅者が十名を越えることがあり、賑やかな一年だったように思います。しかし、9名(海外より5名)が入門しましたが、6名は途中で断念しております。続けることの難しさや至らない指導であることも痛感し、自身の修行のしどころと心得るところです。

 入門後わずか2~3週間で安泰寺を降りていく人、三か月のトライアル後に最低3年修行しますと言っていたが早々に気が変わって降りていく人達を見ていると、修行について思うことがあります。

 安泰寺の修行(または修行)は厳しい、大変、苦痛などネガティブな言葉が次々に出てきます。これは誰もが認めるところです。現代生活を謳歌してきた私たちにとって、山奥の自給自足の生活となると過酷な肉体労働や慣れない生活スタイルに悩まされることもあります。さらには禅寺での細かな作法がたくさんあり、これに慣れ、覚えなければならないことに面食らうこともあります。ついうっかり忘れてしまうと、堂頭、先輩から指摘があります。

 私にも安泰寺に入門して数か月が過ぎると、新鮮な気持ちは薄らぎ、自分や多くの物、事、人へ様々な違和感や不満を自覚し始めたという経験があります。こんなはずではなかった、何かが間違っているのではないか、いつも何かに引っかかって不自由な感覚になりました。尼僧堂での修行においてもそのような思いや揺れ動く気持ちがあったことを記憶しています。

 しかしこの修行生活の中で起こるネガティブな感覚、不快感は禅修行をする上でとても重要な感覚であり、この感覚があった時こそ修行のしどころではないかと思っています。ネガティブというより自分の方向を教えてくれるシグナルと言いたいです。なぜ大変なのか?厳しいのか?苦痛なのか?これはすべて主観で、私が大変と思うから大変なのです。私が厳しいと思うから厳しいのです。私が苦痛と思うから苦痛なのです。このようなネガティブな考えにとらわれてしまうと、心に不自由さを増し、それがまた苦痛を産む、不快を増していくという悪循環にハマってしまいます。この悪循環を断ち切るためにこそ禅(仏教)の修行が意味をもってくると思うのです。

 そもそも仏教の基本教理、四法印の中に「一切皆苦」があります。「諸行無常」「諸法無我」という道理を正しく理解しないで我執我見をほしいままにすることで苦は起こります。要するに苦とは思うおりにならないことです。想像もしていなかった安泰寺での修行生活、禅修行(修行生活)はこうあるべき、こんなやり方しては、、、などと自分の思いを固持したのならばそこに不満(不満足感)が生まれてくることは容易に想像できます。この苦痛、苦しみを解消するために苦から逃れるという方法を取るのが安泰寺を降りていくという行為になると思います。(安泰寺を降りることがすべて逃れるという行為になるとは限らないとも思いますが)このように楽を追いかけ苦から逃げていたのではいつまでたってもこの連鎖の堂々巡りの人生の時間を過ごすことになります。この連鎖から抜け出ることを四法印の四つ目「涅槃寂静」と言い、波風立った心の中が静まりかえる究極の安楽となると教えています。

 では私たちはどうすればよいのでしょうか?「苦の解消への近道は苦を大事にすること」この言葉を聞き、とても腑に落ちたことを記憶しています。ネガティブな感覚をシグナルと捉えるということ重なります。実際には今私が苦痛に感じていることは何なのか、なぜそう感じるのか等々じっくりと、客観的に向き合い、観ていくということをやっみるのです。時にこの作業も苦痛を伴います。しかしそれさえも相手にしないで冷静に観つめていくということを習慣にしてくのです。

 道元禅師が仏道修行者たちに向け修行の心得を示された「学道用心集」の最後、第10番目の冒頭に、正しい道を選ぶには参師聞法と工夫坐禅と書かれています。これは師の教えを聞き、実践していくという意味合いです。その上で師の教えを聞くということはどのように聞いていくのかを具体的に示されました。

“直下承當の事”と示されており、これを「従来の身心を廻転せず、但、他の証に隨ひ去るを直下と名け、承當と名くるなり。唯、他に隨ひ去る、所以に舊見に非ず。唯、承當し去る、所以に新巣に非ざるなり。」と説明し、学道用心集を締めくくられています。訳すと、これまでの心と行いの習慣のままに振る舞うことをやめ、ただひたすらに仏祖、師匠、先達と同じように実践していくことを直下といい、承當という。ただ、仏祖、師匠、先達がやったように実践していく、なので自分のやり方ではない。ただ、他から受け取り、受け入れ、引き受けて自分への責任を持って実践していくだけ、だからそれは新たに別の違った自分の考えを作って行うことでもない、という意味です。

 また道元禅師は正法眼蔵随聞記(道元禅師が修行者、在家者たちに折に触れ話されたことを弟子が記録していったという書物)の中にも「我が心にたがへども師の言ば聖教の言理ならば全く其れに随いて、本の我見をすててあらためゆくべし」「忠言逆耳。いふこころ、我がために忠あるべきことばは必ず耳に違するなり。違するとも強いて随い行ぜば畢竟じて益あるべきなり」「只すべからく心身を放下して、仏法の中に置いて、他に随いて旧見なければ、即ち直下に承当するなり」「真実の得道というは、従来の心身を放下して只直下に他に随いゆけば、即ちまことの道人となるなり。是れ第一の故実なり」等々繰り返し自分の考え、やり方を手放して他に随い行うことを言われています。 ものの見方の大転換をするにはこのところを実践し乗り越えることが重要で、この実践こそがひとつの禅修行であり仏道であると言えるのではないでしょうか。

 先に挙げた“不快感を自覚する”ことは自分に“舊見や新巣”があることの気づきにつながる大切なチャンスとなっていると思います。上手くいかない、モヤモヤする時はじっくりとその思いに向きあって、とことんそこに浸ってみる。それが「大事にする」ということだと思います。

 安泰寺を去るという行動を取った人々には自分の「舊見や新巣」に気づかず、増してや他に随うことをしないで断念しているよう思えます。自分の思い描いていた禅修行とは違い“こんなことはやってられない”という心境になっていくのだと思います。そうは言ってもこのような行動も、その時のその人となりであり、その人自身であり、正誤はない、その時のそのままの姿であるというだけのこと、なのですがこのように片付けてしまえば、結局は世情で生きていくこと、真に大事なことに近づけないどころか、さらに迷いの迷路を増幅するだけなのではないか、、、という思いが払拭しきれないでいます。

 このようなことに気づくには数週間、数か月ではとても難しいです。安泰寺の入門条件に最低3年と言っていますが3年で終わりではありません。むしろ迷いが深くなってゆく時期です。だからこそ続けることの重要性を感じています。内山老師が安泰寺に残された言葉の中に「黙って10年坐ること、さらに10年すわること、その上10年すわること」と表現され、続けることを、断念しないことを教えられているのだと思います。

 どのようであれ「続ける」ことができよう、支援していく必要があることに気づきます。続けてもらうために、凡情に付き合ってばかりでは真に大切なことから外れてしまう。さりとて凡情も大切にしなければ続けることはできない。凡情を宥めすかして修行の強弱を綱渡りのごとくバランスをとりつつ、綱から落ちないようやって行かなければなりません。

 私も今でもネガティブ感覚、不快感があるのですが、以前ほど苦しまなくなったように感じています。それは、上の立場になり自分の思いどおりになることが増えてきたことにより苦痛が軽減され、自身が気づきにくくなっているからです。このことに気づいた時、最も危険な存在は私自身であることに改めて気づかされています。私の中の凡情を宥めすかして修行の強弱を綱渡りの綱から落ちないように弁道精進あるのみです。

 このように日々スッタモンダしておりますが、今年も無事にこの地で修行ができることの喜び、在り難さをしみじみと感じる今日この頃です。坐禅に問われ、大自然から問われ、周囲の人々から問われ、自身に問いかけ、問い続け間違いのない仏道を歩んで参りたいと思います。