無題

健雄

Muho


 先日、渋柿を収穫して今年の冬用に干し柿作りを行った。今年の渋柿は昨年に比べていくらか小さく、干し柿にするとずいぶん小さくなるのではないかと心配する。そのようなことを思いながら、自然のサイクルを通して一年の時の流れを感じることができることをありがたく思う。今年は初めて田んぼで田植えから稲刈りまでの流れを経験することができた。生まれてこれまでお米を主食にしてきたが、実際にどのように米が育っていくのかは知らなかった。田車を転がす大変さなど実際に米作りをすることで、一食一食の食事をより丁寧にという思いが強くなった。自分が食べるものが何から、どのように作られているのかを知ることで毎回の食事がより新鮮なものになった。本来、それは食事に限ったことではなく、自らが着ているものであったり、使っているものの全てについて言えることである。自分の身近にあるものについて深く知ることは、日々の一日一日を新鮮なものにする。安泰寺では同じ差定で毎日過ごしているが、昨年よりも一日一日が新鮮なものになった。ここでの生活は自然のリズムの中に私がいる。逆も又然りで私のリズムの中に自然があるのである。その事実はまだ分からないし、体験できない。風が自分の中を流れ、心臓の鼓動が自分の中からなかなか聞こえてこない。私と他者、私と自然の間の壁を取り除くために、一歩一歩坐禅をして精進していきたいと思う。

 今年の八月に母の病気が見つかり、少し大変だった。別に亡くなった訳でもないが心が痛んだ。頭で悲しさが意識されないのに、気づいたら涙する自分がいた。どうして自然に涙が流れて来るのか。それは私自身の中に母がいるからに他ならない。母だけではない。他人も皆、私自身の中にいる。だから他人に何かあると心が痛む。私が心を痛めたところで他人のために何か具体的なことができるほど優れた人間ではない。私の出来ることは心を痛めながら、坐禅に精進することだとここでも思う。

 「坐禅に精進」と二度書いたが、それはどういうことか。それは皆で坐る時も、一人で坐る時もしっかり坐るということ。私の場合は呼吸をしっかり見つめること。その努力をたゆまず相続すること。安泰寺という恵まれた環境にいるにも関わらず、一人で坐るということをここしばらくしていなかった。差定に沿って坐ることも大切であるが、一人で坐ることも大切にしなければならないと感じる。
 「快馬は鞭影を見るや正路につく」。これは今年の午年にちなんで、お正月に頂いた言葉。差定があって初めて坐禅をするのではなく、自ら努力して精進する。そんなことが大切だと今日この頃思う。