無題

宣章


ここに来る前は、生きていることの不安と苦しさで覆われていたように思う。表面上では笑って、何となく空気を合わせてやっているけれど、実際は苦しさで一杯になっていた。こんな感覚は思春期の頃に誰しもが味わうことだろう。そして、自分もそうだったように、時間とともに日々の中に埋もれ去られていくものだ。しかし、生きている中で必然的に起こる出来事によって再び掘り起こされることだってある。そうなったら大変だ。「理屈」という強力な武器を持つようになった人にとって、思春期の頃のような対処方法はできなくなっている。原理的に解決できないものに対して理屈で挑んだってどうしようもない。踏んでいるはずの地面が実はいかに脆く、崩れやすいかが理屈を通さずわかる。この状態であたりを見回すと、親・友人を含めた周囲の人との噛み合わなさで苦しくなる。さらに、傷口にペンキを塗るように、愛想笑いでそのギャップを隠す自分が苦しくなる。また、苦しい自分を観察している自分さえも苦しい。まさに苦しい三昧である。

そんな私が仏教に惹かれたのは、「苦」からスタートする宗教だからかもしれない。お経を読むと2500 年前、最初に釈尊は説法するのをためらったそうだ。「教えを説いても愚かな衆生共にはわかりっこない」と考えたらしい。しかし、何度もお願いされたので、慈悲心のもと仕方なく立ち上がって説法したのだ。その後、初めて教えを説くのだが、そこで釈尊が発した言葉は「すべては苦である」ということだった。生きること、ひいては存在すること自体が苦しみだと言うのだ。なんてネガティブな教えだろうと拒否感を覚えるひともいるかもしれないが、自分にとっては腹の底から納得させられ、仏道を歩んでいきたいと思わせるものだった。

安泰寺の修行生活の中で、苦しみがキレイさっぱり消えたのかと聞かれれば、そんなことはない。いまだに苦しい。ただ大きく変わったことは、苦しんでいる自分を受け入れることが出来るようになったこと。いやむしろ、苦しみを抱えたまま消えなくてもいいと思っている。苦しいなら苦しいままにしておけばいい。この感覚がなくなり、苦しんでいる周りの人に共感できなくなる方がよっぽど辛い。

「自分なんかより他者を先に救いたい。身体感覚でそう思えた時、すでに自分は救われている。」

そんなことを攝心後のあちこちが痛む身体で今感じている。