高井

 安泰寺の修行生活が二年目となった。昨年の秋に上山をして以来、様々な経験(それは、楽しい経験よりもどちらかといえばつらい経験の方が多かったが…)をしてきたが、一年間を過ごして私の中で心境に変化が生じた。

 安泰寺に来た当初の私は、「何かを求めて」安泰寺での修行生活を送っていた。それは、今振り返ると「こころのやすらぎ」や「求めない心」といったものであったように思う。

 しかし、安泰寺での一年間の修行を通して、このような心持そのものがそもそも間違いであったのではないかと感じるようになった。 

 安泰寺での生活は、自給自足の修行生活を送る上では当たり前のことしかしていないし、嫌なこと、苦しいことがあるのは娑婆と全く変わらない。(いや、むしろ生活は娑婆よりも大変である。)

 その中で特別な何かを求めていても、それは得られない。

 道元禅師は正法眼蔵「現成公按」巻の中で「人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり」と言っているが、そのように、何かを求めること、それ自体が間違いではないかと最近感じるようになった。(そして、恐らく安泰寺に来る全員がそもそも間違っている。)

 このことは、坐禅のときに特に感じることである。

 私が安泰寺に来た当初は、坐禅をすることによって得られる「特別な体験」を心のどこかで期待していた。

 しかし、安泰寺での坐禅は、そういった「特別な体験」を得られるものではなかった。

 むしろ、そういったものを求めている自身の「醜さ」が露わになり、そういった思いが鎮まっていくものであった。

 これらの経験を通して、思いを鎮めて「ただ坐禅する」・「ただ修行する」ことが、安泰寺で修行生活を送る上で大切だということを、最近感じるようになった。(まだまだこのような「無所得」の心境にはとてもなれそうにないですが…)

 その意味で、少なくとも道元禅師の言われる坐禅は体験ではなく「生きるねらい」をつけるという意味での「宗教」で、修行はその「生きるねらい」に向かって歩む「身心の筋トレ」ではないかと思う。

 また、安泰寺に来た当初の私の「発心」も、最近では違う形に変わってきた。

 私は安泰寺に来る前は勉強や仕事に価値を見出せず、この生活がこの先も続くことにうんざりして、坐禅に唯一の希望を見出して安泰寺に来た。

 しかし、道元禅師は学道用心集で「菩提心とは無常を観ずる心也」と言われているように、そういったことを考えている自分自身が「明日には生きていないかもしれない」という実存的な自覚こそが道元禅師の言われる発心ではないかと最近では感じている。

 道元禅師は母親の死によって「無常」を観じたのであるが、私はそのような「無常」を今までリアルに感じたことがなかった。

 しかし、安泰寺での修行生活で、将来の人生設計を考えることができなくなり、なぜ修行しているのか分からなくなるという体験をした。(そして、これが「無常」の一端なのではないかと思う。)

 この体験から、結局は念々(一瞬一瞬)を命懸けで生きることが修行(=生きることそのもの)なのではないかと最近では感じている。

 安泰寺での修行生活が二年目になるが、このような環境に身を置いて修行生活を送ることができるのは本当に有難いことだと思う。

 堂頭様をはじめ修行者の方々には、心から感謝しております。

 今後ともよろしくお願いします。

 

高井啓輔