大人の修行

大河


私が修行をイメージするときにでてくるのは漫画やアニメなどでヒーローが滝に打たれたり、木をひたすら殴ったり、タイヤを引きずってグラウンドを走ったり、それに耐えた末に力を得て悪者を倒すというような肉体的な強さを求めて痛みに耐えしのぐ苦行をイメージしていました。安泰寺の禅による修行はそんな最後に何か成果を求めたり、前の自分より劇的に変わる、とかではない修行だと思いました。

生まれてから親の義務の中で学校や周りの雰囲気で大学、それから社会にでて仕事をして、お金をもらって欲しいものを買って生活して、子供の頃から何かしら比べられて求められることばかりだったような気もします。
学校では成績があって数字によって他の子と比べられたり、社会でも誰の売り上げが一番いいとかまぁとにかく数字ばかりの中で生きていて周りばかりを気にして、数字数えてばかりでその社会になじむようにうまくすることを考えながら生きていく、周りと似たようなことをして、それに溶け込むように努力して、人間が人間らしくしている感覚のようで「自分」ってあるのかとか何が「自分」って感じていました。
私が修行をするのは、自分や周りをもっとたくさん知りたかったからです。
とはいうも上のような社会の中ではなく、もっと内側の心とでもいうかそんなものをです。

人は多分皆自分とか人生とかなんか考えたことあると思います。私も考えると自分の寿命が絶えず1秒ずつ減っていくのを何も気づかずに鼻クソほじってる、そんな自分の命は何の為に使うのか、何の為に生きるのかとよく考えてしまいます。
私はそんな自分にもっと気づけるようになりたいです。鼻クソほじってたら「あ!いま鼻クソほじってる」とか自分が何をしてるのか、周りで何が起こっているのか。なぜならそれら全て命がけで行っているからです。鼻クソほじってたって命がけ、生まれて今これから先ずっと命がけ、それに気づくことが修行する意味だと思います。

子供は生まれてからありのままに全てを感じてそれを学んでいく、それが子供のすべきことだとおもいます。しかし子供の時にたくさんの人と出会い、相手が何を感じて想っているかを考えるようになります。それから大人になれば社会を知り、他人の気持ちや周りの雰囲気をきにするようになって、いつしか自分から離れて相手に染まろうとするようになります。
自分の「本心」を忘れるようになってしまう。財布をどこかに忘れたら慌てて探しまくるのに、「本心」を忘れても忘れたことにすら気づかなくなる。

私たち日本人の祖先である『侍』は武士道という志をもって「武士道というのは死ぬこととみつけたり」と心得、死があるからこそ命の大切さに気づいて、命の使い方を真剣に考えることができる。それは完全に死ぬために「今この一瞬一瞬を完全に生きよ」とされ、一瞬一瞬を生きているからこそここ一番って思ったときにすんなり自らで死ぬこともできたのです。
今から150年前の日本まだ侍のいた時代、その時代は徳川幕府が最も廃れて最後には無くなるわけですが、彼らは日本という国のために皆命をかけていました。

それは武士道の「義」であって、自分が信じる正しい行いがなんであれ何をしてもいいという思想から殺人などにも発展はしていますが、それも全て国を良くするため。自分の本心を知り、そこに全力を尽くすから命すら投げ入れることができるのです。

昔小さい頃品揃えの悪い古い駄菓子屋があって一番近くだったので仕方なくそこでお菓子を買っていました。お店のおばあちゃんもかなりボケていてお釣りを間違えまくるし普通のコンビニより少し値段が高いしで、中学になって自転車にのれるようになってからは10km離れたコンビニで買うようになりました。しかしある日友達からあの駄菓子屋のおばあちゃんが亡くなったと聞かされた時、どんなに値段が高くてもたくさん買っておばあちゃんとお菓子食べながら話しをしたらよかったという気持ちが溢れました。
終わりがあるのを知らないと後悔する、終わりがあるのを知ることで一瞬一瞬が本気で生きてくる侍の志が少しわかった気がします。

その幕末の時代で日本を明治に導いた日本人の中の一人、坂本龍馬は命の大切さを知ってる人物だと思います。
龍馬は土佐藩出身で幕府を倒すという思想をもっている人物でした。
ある時船を得て貿易をしようとしているところをたまたま近くの紀州藩(幕府側の藩)の船と衝突し、明らかに向こうの不注意なのにもかかわらず、船損傷の借金1億円を要求され裁判に持ち込まれ、またその頃自分の藩を抜け出す罪(脱藩)もしていたから幕府から命も狙われていて現代の感覚というか私ならもう自殺しかないというような状況で龍馬はどうしたか、作詞作曲で歌を作って街中言いふらしまわったのです。
それはこんな歌でした。「船を沈めたその償いは 金をとらずに国をとる はぁ~よさこい♪よさこい♪」というような歌でそれが街で流行って街の皆が龍馬の味方になるようになり、さらに龍馬は日本式の裁判ではなく世界共通の裁判にして自分を有利にし、結果龍馬達に賠償金約1千5百万円を相手からもらうことができました。
彼が幕府を倒す思想をもっていることは上で書きましたが、戦争によって幕府を潰そうとしている他の藩の者たちとは異なった考えを彼はもっていました。戦争の先にあるのは敗者と勝者であって多くの血を流しあってそれが歴史として永遠のものとなる、だから龍馬はその時代の最も幕府を恨んでいた藩同志を結ばせ、十分に幕府に威圧がかかったときに意見書により無血で幕府を瓦解させました。しかしその後すぐに暗殺されたのでした。
命や1億円の借金のあるなかで歌を歌っている龍馬、彼は人生を本気でふざけて生きていたと思います。それは龍馬が生前残した言葉が「人間いつかは死んで野辺の石ころになる。だったら思い切りなんでもやってみたらいい、最後は骨だけになるんだから思いきりやってみろよ」。日本にとっての役目を終えて一生も終える、まさに「完全に生きる」だったのではないかと思います。
江戸時代の日本の平均寿命は38歳前後だったといいます。
『死』とは『生』を完全燃焼させるためのスイッチだと思います。
だからあの時代の命は一瞬の美のように儚くも美しいのです。

私が今、安泰寺で何の修行するかと考えたとき座禅はその最もわかりやすい手段の一つなのではないかと思います。始めで述べた肉体的なこととか悪者を倒す為の修行ではなく「今」を感じる、「死」を常に胸の内に収める、その死は自分に恐怖を与えるのではなく死が一瞬一瞬迫ってる感覚を忘れず、自分の本心や周りで起こっていることに自然に感じとれる平常心でいられること、それこそが私の修行だと思います。