安泰寺に期待すること

遊心

yoga


 安泰寺に初めて訪れたのは2012年のことだった。思えばその時々で私が見つめる安泰寺の姿は様々な形で変化してきたようだ。ただ自分の知らない何か面白そうなものを求めて参禅者として過ごしていた頃と、出家者として安泰寺に戻った今と比べた場合、一番の違いは何かといえば他でもない「安泰寺に対する期待」である。
もとはといえばそもそも他の大勢の参禅者と同じように、私は安泰寺が自分自身にとって何か都合の良い環境であることを期待して四年前の秋に上山したのであった。それは未知なる経験への期待であったし、新たなる能力を獲得することへの期待であったように思う。事実、二年弱の参禅期間は結果的に多くの経験と成長を当時の自分自身にもたらしたことは確かだった。それでは、今年安泰寺で僧侶となり、再び同じ修行生活を送ることを決めた理由が同じく以前の動機であったかと言えば、全く、不思議なほどそのような実感はない。

安泰寺の事が少しずつわかってきた今となっては、安泰寺の持つ可能性や乗り越えるべき課題についておのずと目を向けざるを得ないことも増えてきた。世界中からの参禅者を受け入れる、人里離れた修行道場である安泰寺では、その役割と場所としての特殊性は一際目立った個性を持っていると言える。他のお寺や団体に比べて、良くも悪くも異彩を放っていることは間違いない。まさにその部分に魅かれて、四年前の私は山を登ったのであった。それに対して考えると、現在の私はその性質をふまえてはいるが、当時ほど魅力的であると感じているとは言えない。
安泰寺のことを全く知らない当時ほど、新たな発見や経験を期待できる訳はない。また、自分自身が成長したり何かを獲得するためであれば、いくらでも他に行くべきところはあっただろう。しかし、大学を卒業して、正確には卒業する前からほとんど迷うことなく安泰寺へ戻ってきたのは何故なのか。実際自分自身の考えをさかのぼってみてもこれという決定的な理由があったわけではなかった。かといって惰性と成り行きで現在までたどり着いたと言うには、以前に比べても遜色のない、むしろより強い意志と確信を持って来ていることを考えると無理がある。

安泰寺の求められるべき姿とは一体どのようなものであろうか。簡単に考えれば答えはひとつである。仏法に基づいた正しい行を修する僧団であることだ。同様の意味で真面目な修行者が中心となって生活する団体であること、新たな修行者を正しく指導してゆくこと、が求められるだろう。初めに私の期待した安泰寺の姿には、この「正しい指導」がはっきりと映っていたと思う。人的なものに加えて環境によって教えられるものがあることを期待していたのだろう。
今、よくよく考えてみると現在の私が安泰寺に期待することは、以前のような私個人だけにとって都合の良いあり方ではなく、「安泰寺自体がその求められるべき姿であること」のようだ。その求められるべき姿とは、上に書いたように本来の仏法のあり方それ自体であるし、あるべき修行の姿である。
ここでようやく気付いたのだが、その本来の仏法、あるべき修行の姿こそが、私自身が出家者として人生を歩む決断をして求める事そのものであった。つまり、期待という言葉を使って表現するのであれば、今の私が安泰寺に期待するものであり、自分をそこに戻らしめた理由であるものとは何かといえば、自分自身の人生であると言えるだろう。それは生活と言っても、また命と言ってもいい。大仰な表現に聞こえるかもしれないが、しかし、その自分の人生を正しい仕方で生きること、それこそが仏法が示すあり方であり修行ではなかったか。安泰寺の目指す形も役割もそうなのであれば、それを行うことに文句を言われることなく存分にできるその場所に来ることに何の不思議もないのだ。ただ、それは以前のように安泰寺が自分に何かをしてくれるかのような期待ではなく、安泰寺のすべきことが自分のそれとの一致の上で生まれる、期待なのだ。つまり、安泰寺への期待であると同時に、自分自身の人生への期待であるとも言える。

全く具体性を欠いた表現ではあるが、これが正直なところである。正直なといっても、これは考えというよりは、感覚に近いのではあるが。最後に加えるところに多少の具体性を含ませることで調整を図ろうと思う。
私が今まで安泰寺で得た様々なものは、長い年月伝わる仏道の上で見つけたものであることに疑いはない。その脈々と続く歴史を今なお続けてゆくと言う仕事は安泰寺に欠いてはならない物である。日本仏教の中でも、世界の禅への期待の中でも様々な活躍の可能性が眠っているはずだ。そこで安泰寺の特殊性と、伝統、また社会一般との折り合いを上手くつけながら修行の場であり続けることが第一の要点だろう。そのために寺を維持する経験豊富な人材の育成と確保が必要になる。新たな参禅者には、なるべく上手い具合に成長してもらわなければならないし、経験を積んだ参禅者には、なるべく上手く寺を運営してもらわなければならない。当たり前のことを言っている感があるが、おそらく今までの確かな成果もこの点による物であるし、これからの大きな課題も変わらず同様であるのは間違いがない。
場所としての性質上仕方のないことであるが、参禅者の求める物は往々にして全くの的外れである。しかし、一面では安泰寺で得られる物が確かにその求める物であるとも言える。そのため、新たな参禅者に対して全くの場違いであるとは言えないし、かといって、彼らの求める物をそのまま彼らの思う形で求め続けさせることは決して出来ないのが悩ましくはある。しかしだからこそ指導する立場の者も、される側と同様にその微妙な修行の繊細さに悩み精進するあり方を続けてゆくことでしか安泰寺は期待される方向には進まないはずだ。

では今まで着実に新たな変化を遂げながら成長してきた安泰寺が今取り組むべき目下の課題はなにか。あえて一口にまとめるのであれば、「使い捨てにされない」ことである。多くの人々の場合で、はじめに安泰寺に来る動機は私同様、安泰寺を自分の都合の良いように利用することである。そのこと自体に良いも悪いもない。しかし安泰寺自体としてみた場合、個人の都合の良いようにだけ使われることで彼らとの関係が終わってしまうことは言うまでもなく好ましいとは言えない。たしかに当初の目的がそのままの形で達成された場合には、目的は達成されたのであるから、手段としての安泰寺は使い捨てにされてしかるべきなのだ。だがしかし、その達成された目的とは果たして仏道の示すものであったか。そのような目的と手段における関わり方でのみ生活を送っているのであれば、安泰寺の示す修行のあり方とは大きくズレが生じてしまう。その目的という個人の都合を手放すことから始まり、手放したそこに全て収まる行いにこそ本来の求めるものがあったことを安泰寺で発見してもらわなければ、修行者としてのあり方を追求してゆく僧団の育成は不可能になってしまう。
安泰寺において何を発見するのかは個人次第ではあるが、そこに直接表面的な行いに現れずとも仏法との何らかの関わり方を見出してもらうことが、ひいては安泰寺が使い捨てにされないことへと繋がってゆくのではないだろうか。その過程を経ることで安泰寺の大きな役割の一つである、仏法の宣揚を期待することも可能になるだろう。何はともあれ、安泰寺で過ごす身として自分自身が持つその安泰寺への期待は、そのまま自分自身への期待に直結していることは忘れてはならないこととしてしっかり頭にとどめておきたいものだ。