安泰寺に期待すること

純哉


私が安泰寺に期待すること。

「開かれた坐禅堂から広める坐禅堂に」

 私が思う安泰寺の唯一無二の特徴は
1) 年間を通して1800時間坐る徹底的な坐禅修行
2) 坐禅に質実を与える自給自足の生活
3) 男女、世代、国籍を問わず世界万人に開かれた僧堂

 私が安泰寺に魅力を感じ、実際に参禅してみて改めて感じた安泰寺を安泰寺に成らしめているのがこの上の三つであると思う。もともと宗学研究の学堂として作られた安泰寺。沢木老人、内山老師から引き継がれた坐禅への信仰と実践に加え、この兵庫県但馬地方の山奥に移ってから今に至るまで先輩方々によって築かれ引き継がれてきた大自然の中での自給自足の生活は、生命の根源に立ち返って坐禅するという質実剛健な修行道場という類稀な僧堂を実現している。まさに内山老師の云う「天地いっぱいの命」を身をもって味わうことで初めて垣間見える禅の世界がそこにはあると思える。

 それに加えてある大きな特徴が修行の熱意さえあれば出家者、在家、男女、世代、国籍を問わず誰にでも扉が開かれているということ。「360度開かれた坐禅」と堂頭自ら形容する坐禅の姿勢が反映された分け隔てのない懐の深い僧堂だと思う。実際、様々な人種、国籍、年齢、バックグラウンドを持つ人々が切磋琢磨しながら共に汗を流して働き修行に打ち込む様は他ではまず見ることができない光景で、禅という日本の文化を新しい何かに昇華させるようなエネルギーさえ感じられる。それはある意味美しくもあり、可能性に満ちたユートピアにも映る。

 しかしながら一方で、一新発起をして来たもののイマイチ禅修行の掴みが得れず大地に足がつききってないままに日々の生活を送る参禅者も少なくはない、という現実を垣間見る思いがある。例えば坐禅。座り方一つとってもこれだけ多種多様な人種、世代、バックグラウンドの人が坐ると坐禅の経験の有無では測りきれないいろんな座り方や問題が出てきたりする。日本人は床の生活が慣れているせいか、あるいは禅寺で修行をしようと思っている人ならばある程度の予備知識や経験があって当然なのか皆な平均して坐禅を組める様だが、外国人参禅者はどうもそうはいかない。そこからなんとか上達しよう、安泰寺の坐禅を習得しようと努力する人もいれば、自分独自の座り方を終始変えずに座り続ける人もいる。「ただひたすら坐る」「黙って坐る」只管打坐を実際真剣に実行するあまりか、「誰も坐り方を指導してくれない」という声が聞こえるのも確かだ。つい先月もただ我慢して坐るあまり座蒲の上に小便を漏らした短期参禅者もいた。「大人の修行」とは自らのイニシアチブで日々精進する事を意味するのであろうが、それが自然と万人に備わった資質とは、いくら安泰寺まで来て修行しようと思っている人々でさえ思えない。禅修行の道場としては過保護に思えるかもしれないが、学堂である限り坐禅指導の面ではある程度のサポートが必要ではないだろうか? 例えば定期的な坐禅講義、大学のチュートリアルのような個別指導、坐禅の向上を目的としたヨガ、太極拳などのボディワークを取り込んだワークショップなど、およそ厳格な禅道場とは遠いアプローチも安泰寺に集まる現代の若者にとってはいたって普通なことかもしれない。座蒲の上で死ぬつもりで必死に座る意気込みは、安泰寺のような厳しい寺では必要不可欠な精神ではあるが、いやむしろこの個人の意思と自由がいつも優先されるゆとりのある「ユルイ」時代だかこそ、一昔前まで美徳とされてきたそのような気合い、忍耐や根性が求められているのも確かだろう。しかしながらそういったストイックで厳しい精神性は、あたかも崖から突き落として呼び起こそうとしても、そういったゆとり世代の若者に果たして芽生え、育つのだろうか?もしかしてそれは永遠のコミュニケーションギャップとして埋まることのないまま学びの妨げにもなり兼ねないのではないのか?

 安泰寺が日本で他に例を見ない開かれた禅道場である事はまぎれもない事実であろう。しかしこれからはこの開かれた扉に向かって世界中から集まってくるありとあらゆる人々を見つめ、我々が我見を捨て、彼らのニーズにあった柔軟かつ適切なコミュニケーションでもって禅修行を説いていくことも、ある意味我々にとってもまた修行であるのかもしれまいか?それはなにも安泰寺で修行している参禅者に対してだけではなく、安泰寺に興味を抱く日本全国の人々を対照に、いやむしろ世界を視野に入れてワークショップやリトリートを企画するのもこの安泰寺が持つ素晴らしい歴史と資質をもってすると十二分に可能であり、また望まれていることだと思える。我孤高に修行しせりというのも美しいが、この行を一人でも多くの人々に伝えようとするのもまた宗教人の摂理ではないだろうか?

 安泰寺が京都からこの但馬の山奥に移ってから今年で40年。世界は今インターネットでつながり、どんな山奥にいても世界に手が届く時代になった。これからはむしろ山に「引きこもる」のではなく、山で修行しながらもそこからどんどん情報を発信させて行き、その情報が届く末端の人々に宣教して行くような心でもって安泰寺禅を広めて行く。開かれた坐禅堂から広める坐禅堂に、それが私が安泰寺に期待することであります。

山崎純哉