安泰寺で8ヶ月を過ごして

 
典座の重要さと心構えを記した道元禅師の著作「典座教訓」は次の一節から始まる。
 
“仏家に本より六知事あり、…就中、典座の一職は、これ衆僧の弁食を掌る。…古より道心の師僧、発心の高士、充てられ来たりし職なり。蓋し弁道の一色による。もし道心無くば、徒らに辛苦に労して、畢竟益無きなり。”
 
学道用心集にはさらに一般的に、仏道修行者に向けた言葉として次のような記述がある。
 
“古人云わく、発心正しからざれば万行空しく施すと。誠なるかなこの言葉。”
 
典座教訓、学道用心集に記された以上の言葉は修行が修行となるのはひとえに修行者の心に依るものであり、その心が欠けていれば修行には決してならないことを述べている。
 
私は今年の3月に安泰寺に上山したため、この文集を書いている11月の今、約8ヶ月の時間を安泰寺で過ごしたことになる。上山してから今までの私の安泰寺での生活はどうだっただろうか。改めて振り返ってみると、悩んだ末に仕事をやめ大きな志(?)を持って安泰寺に飛び込んだときの意気込みはどこへやら、結局今の私は毎日をただスケジュールにしたがって作務をこなし典座をこなし直堂をこなし輪講をこなし、坐禅の際はボーッとした時間を無気力に過ごしているだけになりつつあることに気がつく。何故安泰寺に来たのか、修行とは何なのか、坐禅をなんのためにするのか、そういったことはいつのまにか考えなくなり、ただ目の前のスケジュールに唯々諾々と従い安泰寺での日常を惰性的に生きているだけになってしまっている。そのような気づきのもと道元禅師の上の言葉を読んでみると、すべて自分のことを言っているような気持ちに包まれる。
 
安泰寺での生活においてはっきり認識しておくべきことだと思うのは、「安泰寺では別に特別な修行が行われているわけではない」ということである(機会と環境が豊富に与えられていると言うのが最も適切であると思う)。安泰寺の日常は作務が中心であるが、作務そのものは修行でもなんでもない。行為という観点から見れば、作務において安泰寺で行っていることは単なる農業であり薪割りであり掃除であり等々といった、山奥で生活するために必要な作業でありそれ以上でもそれ以下でもない。それを単なる作業で終わらせるか、それ以上のものにするかは各人の志にのみ依る。絶対に取り違えてはならないことであるが、そもそも修行というのは何がなされて(畑を耕し種を蒔きそして収穫)その結果いかなる成果が得られる(大根、人参、etc.)か、といった行為の内容と結果によって決まるものではなく、行為者がいかなる志を持って行為に臨むか、その心がけによって決まるものである。それは安泰寺にいようが、普通世間の会社で働いていようが同じことである。それゆえ、安泰寺にいながら一瞬一秒も修行しないこともできるし、その逆に会社でサラリーマンとして働いていても常に修行していることができる。
 
私はこのことを忘れ、安泰寺でのこれまでの生活も修行としてではなく、社会からの単なる逃避的・隠棲的生活としてしか送れていなかったように思う。私は少なくとも3年は安泰寺にいたいと思っているが、この3年を意味があるものにできるか、あるいは単なる一時の逃避行ないし山奥ライフとするかは私次第である。安泰寺にいようがいまいが、修行者として、自立した人間として生きていけるようこれからはっきりと自覚し精進していきたい。なお、以上において私は「修行」といういかにも宗教臭い(?)言葉を定義付けることも批判することも無く使用したが、そもそも修行とはなんだろうか。六道輪廻から抜け出すために必要な行法だろうか?肉体的・精神的に強くなるための特訓だろうか?あるいは、道徳的に優れた人間になるための努力だろうか?大乗仏教以前においては修行ないしそれに類する言葉は輪廻からの解脱(いわば苦からの自己救済、救い、悟り)という文脈において主に使用されている。ところが大乗仏教に至ってはただ端的に存在することが同時に救いそのもの悟りそのものとなり、修行という概念が機能する文脈が欠けるようになっていった。そして道元禅師の天台本覚思想に対する疑問(”本来本法性、天然自性身と、若し此の如くならば則ち三世の諸仏なにに依て更に発心して菩提を求むるや”)はまさにこの、いわば存在論的な救済と修行なるものがいかにして結びつきそしてまた結びつきうるのかという問題をめぐるものであった(と私は解釈している)。私自身は究極的にはそこに理由はなく、根拠なき選択(修行をするもしないも、何を称して修行とするかも)のみがあるのだと最近考えるようになってきた。それゆえ、やるならやる、やらないならやらない、しかないのである。とはいえ頭ではわかっても体も心もそうは動いてくれないのが私の現状であり安泰寺での毎日である。先は長い・・・!