安泰寺に期待すること

道宣

yoga

 辞書によれば期待とは、<ある人がそれをするのを(他の人が)あてにし、心待ちに待つこと。将来それが実現するように待ち構えること。>となっている。日常生活では、<親がわが子に期待する>、といった時に使われる言葉である。ここには将来的に何らかの形になることを切望することが含まれているように思う。子供の将来に期待するとは、子供に対して何らかの可能性を見出していることと同じといえるだろう。何の可能性もないものに対して人は期待することができない。つまり、安泰寺に期待することとは、安泰寺の将来に対する可能性を示すこと、に言い換えることができるだろう。
 安泰寺はあらゆる可能性に満ち溢れている場所である。固定的で変えることができないルールなどほぼないといっていいかもしれない(坐禅や自給自足の作務等を除けば)。よく生活の中で何となく使っている、「安泰寺スタイル」などいうものは無いといってもいい。自分でやろうと思えば、限りなく多くのことができるであろう。この懐の深さは、安泰寺が数十年続いてきた組織ということを考えると驚くべきことだと思う。
 しかし、反対から見てみると毎回毎回違う人、違うやり方で行われる現状は「行き当たりばったり感」が多いのも事実である。確かにこれまでは滞在期間が3か月にも満たない人が来ては帰っていく、ということが繰り返し行われてきたため、仕方のないことだったのかもしれないが、現在は3年以上の修行を前提に安泰寺に来る人も少なくない。この意味は、バカンスやプチ禅修行というようなものとは一線を画した、安泰寺に自分の人生を投げ入れてみたい、というメンバーが増えているということだ。先に挙げた安泰寺の懐の深さと兼ねて考えてみると、これからは、安泰寺の方向を決める時期に差しかかかっているかもしれない。参禅者は多ければ多いほど学びが増える、多様性は素晴らしいという大義名分の下で、“ただ在ればいい”というような存続自体が目的でなく、中長期的視点で安泰寺が“いかに在るべきか”を、ここで人生の貴重な時間を投げ出そうとしている人々が主体的に和合して明確に決めていかねばならないと思う。「主体的に和合して」と書いたが、違う言葉でいえば「対話」である。一人の強烈なカリスマやリーダーシップから与えられた基準によってではなく、大衆各々の人生における価値観や背景を含めた全人格的な「対話」によって安泰寺が“いかに在るべきか”を共に模索し、共有し、実践していくことが問われていると感じている。

道宣