私が安泰寺に期待すること

大河

Muho


 『私が安泰寺に期待すること』と問われた直後に安泰寺が僕に何を与えてくれるのか、何を与えられるべきか悩んでいた。

 しかし一方で堂頭さんからは「安泰寺はお前が作るんだ」と常日頃聞かされており、「睡眠不足改善のため睡眠時間をもう2,3時間増やそう」とか「この野菜嫌いだから(肉食べれないから)今度からその野菜(肉)は作らない(もらわない)ようにしましょう。」などといった期待ではどうにもシックリこない。
 だから安泰寺そのものがどうあるべきかについて期待することを考えたい。
 最近から特に感じているのは外国人との価値観。
 海外では当たり前に作られるベジタリアン専用フードやこちらの言葉に対しての反応がいままで日本人相手にしてきたそれとはまるで違う。
 例えば僕が知客で「たくさんのことを一度に覚えるよりも周りを常に見ながら覚えていきましょう」という言葉に日本人は「はい。」で済むところが「ダメだ、覚えられない、さっきのパートを一から教えてくれ!」「これはどういう意味でやっている!?」ととにかく細かい。何時間かかって教えることになるが本番ではとっちらかってしまう。
 またこっちの接し方にも問題があるかもしれない。初めて会う瞬間から「は…ハァイ!はうじっとごーいん?」とそっからのオリエンテーションまで終始カタコトで向こうに合わせてしまってる。
 これではまるで「日本語(日本のマナーや色々)なんて覚えなくていいよ。僕達が頑張るから。」と完全に日本人特有の下手に回り、外国人達は「仲良くやろうぜ、ブラザー!」と肩を組んでくる始末だ。
 これでは何かのアドバイスに対しても「ここはこうしたほうがいいはずだ!」「そんなもん信じられるか!」と軋轢ができてマナーを教える以前に何かが必要に感じずにいられない。
 それは互いの共通の認識が前提になければいけないと思う。だけどそこを共有するのがすごく難しい。「ここが日本だから日本の…日本の…」とせっかくの外国人達の味を消さずにただ日本人の上っ面の真似事を彼らにさせたくはない。
 日本だから…お寺だから…よりも先に安泰寺で自分がどうあるべきか、どうしたいか、何ができるか考えてもらわなければいけないと思う。これでなければいけないという場が安泰寺ではないと思ってる。そのつど国籍の違う人達でそのつど雰囲気の違った安泰寺を作っていければいいと思ってる。
 安泰寺の外国人の割合が今よりもっと増えることを期待したい。雰囲気はその都度変わるはずだが常に同じ時間に坐禅ができて生活できればいい。