これが私の生きる道

慈念

Muho

これが私の生きる道、と思い色々なことに手を出してきた私がこれが私の生きる道であると公言するのは難しい。その時、その時、出会う物事の中で私が取ってきた行動、考えたことが私の生きる道になっている。仏教徒の書かれる本を好んで読んでいたのは幸せを求める気持ちと苦しみを避ける気持ちの上に成り立っていたように思う。幸せと言えば何処か漠然としていてよく分からなく、私は自分の内側の気持ちと一般的な皆が常識と感じるものの間で揺れ動きながら生きてきた。狙った的(お金、女性、仕事、能力の獲得、ポジションetc)に当たるかどうかは打った数、正しい努力、気概で決まると思うけれど、その実自分で終わらせない限り終わりはないと思う。

私の通っていた幼稚園がお寺と関係があり、お数珠を持って拝んでいた記憶がおぼろげにあるけれど、その時の園長先生が言っていたことの中で一つだけ私が憶えているのは「がんばれば、何でも出来る」です。子供心は素直なのか何の疑問も突込みも持たず、そうか!とも思わず、スッとそのことを憶えている。本当か?と思うことも出来るけれど私は未だにただ憶えている。

人生の岐路に立った時、より自分が活き活きと生きていける方へと足を運べるかどうかは根拠の無い勘が頼りになる。根拠の無い勘は、ある意味頼りようがないけれど自分の深いところにある何となく、は、たまたまその日に限って何となくいつもと違うルートを取ることで災害から逃れたりする人や、何となく選んで食べた食べ物で食中りをしたり、結婚する相手や一生続く友人、生涯の仕事との出会いもほんの小さな何となく、がきっかけを生むことがあると思う。勿論、考えて、求めてその結果ある選択にたどり着くのだけれど数多いる男や女の中から何で好き好んでその人なのか?と問われれば付き合ってきた年数によって様々な回答があると思うけれど、我ながら謎である、と首を傾げる人も多いと私は思う。

なぜ、紫が好きで青は駄目なんだ?と問われれば理由は出てくる。けれど、青でも良い理由もその実ある。

小さな頃、何で自分は自分なのか?と問い続ける中で頭が不思議なループに入るようで、一人 ’変な感じ’ に浸っていた記憶がある。今はその感覚に入れないけれど。自分が自分であるから紫色が好きである。と言うと仏教からは離れるように感じるけれどそうとも言える気がする。気がする、、、、。何故、紫が心に引っ掛かっているのかは小さいとき見たテレビのヒーローが紫色の剣を持っていた、とか、近所の声のでかいおばちゃんが紫芋が好きで紫、紫と嬉しそうに言っていた、とかある意味御縁な訳であるけれど、そこで何であのヒーローの剣であって別のヒーローの盾の色ではないのか?何であのおばちゃんの声であって母親の声を拾わなかったのか?は考えても仕方が無い。

私の歩んできた生き方は失敗だったのか、成功だったのか?と聞かれれば失敗は直ぐに幾らでも思い浮かべることが出来る。けれど、身に覚えのない成功も懲りない失敗も私らしい在り方で浮かび上がる。欠点のない生き物はいない。欠点も込みで自分を生きるしかない。

その私の言うところの私はいない、或いは幻想に過ぎないと仏教を勉強すると出てくる。無我である。と。そう言うには深い訳があるのだろうと思うけれど、実感としてはまだまだ湧かない。想像出来るのは、その実感の中にお釈迦様の説かれる智慧のある自由があるのだろうということ。

「私の」は幻想的お話であり、「道」はただ在る。と仮定しても目下のところ「私の」をなくして「道」は見えてきそうにない。「私の」狙う的は沢山あるけれど、よく外すのも事実。一つには嘘をつかない。小さな嘘を簡単についてしまいますが意識していると気づくものです。

仏教のお話は、「実践出来る?」と聞きたくなる話もありますが私はこの教えが尊いものだと感じている。子供心を大切にがんばれば出来る、の言葉を胸に歩んで行きたいと思います。

慈念。