プロ僧伽作りの安泰寺

無為

Muho


今年の文書の決まったテーマは「大人修行とは何か」ということだったんですが、書き始めたら私は「大人」よりも「プロ」という言葉が自分にとって意味がありました。ですから今回は「安泰寺ではプロ僧伽を作るのは如何なる事だろうか」という問題を考えたいと思います。
いま考えたら、「プロ僧伽」はプロのオーケストラのようなものだと思います。このプロのオーケストラの特徴として五つあると考えています。この特徴を説明しながら、プロのオーケストラと安泰寺で作りたい僧伽にどういう共通点があるかという問題を探ってみたいと思います。

楽長はいらない

プロのオーケストラは演奏する音楽を深く知っているから、実は上演中に楽長を見る必要はないのです。彼がいなくても、プロの音楽家は、自発性と協調性が非常に高いので寸分の狂いもない上演できる。楽長の役割は練習の中で外からの知恵を与えること、そして上演の中でインスパイアーすることだと思います。これと同じように、プロ僧伽は堂頭いなくても自分たちで叢林の世話をする、差定を守る、坐禅と摂心をやる事はできるはず。もちろん、堂頭いると嬉しい。彼の深くて長い経験から得た物の見方は私たちにとってものすごく貴重なリソースです。そしてもちろん一緒に坐禅を出会と自身安定してくれる。だけれども、堂頭のために坐禅するとか叢林生活を守るというのはプロ僧伽ではないと思います。同じように、堂頭が恐いから安泰寺のマナーを守るのは哀れなことだと思います。

練習は罰では無く、ご褒美です

プロの音楽家にとっては練習の時間は貴重な物です。いつも”時間はない、もっと練習の時間がほしいなあ”と感じている。これと同じように、安泰寺では坐禅は私たちが学ぶ技術であって、その技術を練習するのは貴重な物だと考えてほしい。数年前、坐禅前のティーミーティング(今日の報告と明日の予定を話し合う時間)がいつも長くなるので、坐禅の時間を短くしていた時期がありました。その状況に対して、あるお坊さんが怒り、「ティーミーティングが長くなった分だけ、坐禅の時間を延長する」というルールを作ったのです。私はそれはそれでいいと思うのですが、問題は坐禅が罰みたいなイメージになってしまうのはちょっと危ないなあとその時感じていました。
私たちがちゃんとプロの姿勢を持つならば、坐禅という私たちの技術に関心を持ってやる時間がいつもご褒美のようにほしくなるはず。皆で一緒に座るのはもちろん有用だけど、別にその以外の時間(放参、休む日)を使えばいいだけのことです。 プロの人は一番良い時間の使い方を自分で決めることができます。それは坐禅だけの話ではなくて、作務もそうだと思う。理想的には作務の決まった時間はいらず、プロ僧伽の人たちはどういう作業をするべきか自分自身で良く知って自然にやる、というのは一つの目的であると思います。

プロのオーケストラのそれそれのメンバーは、全部の構成要素を知っている

私は以前オーケストラの中でパーカッションをやっていました。ある時、僕らたちのパーカッション(メンバー)はバイオリンのセクションの練習中にオーケストラの奥で馬鹿騒ぎをしていました。それで楽長が怒り、言いました。「君たちはバイオリンの練習にもちゃんと気を配った方が良い。全体を見える事できると自分たちの手際は良くなるよ」。安泰寺の生活はその通りだと思います。
ここがプロ僧伽でしたら、皆は全部の係に少なくとも理解を持つはず。畑、田んぼ、典座、道具の修理、トイレ、全部繋がっている。一番いいのは僧伽のメンバー全員が全部の係に実際の経験を持つ事。それは何年間もかかるけれど、プロ僧伽になる為には大事だと思います。

プロのような音楽を身につけるには、時間と効果的な練習が要る

ある理論の中では、プロの腕前になるのは少なくとも十万時間の練習が必要らしい。しかもその練習は効果的にするべきと。普通の人でそういう効果的な十万時間を得るのはだいたい十年以上掛かる。プロのオーケストラでしたら、皆そのような経験というのは当然必要です。叢林の中の生活も同じく、全部の要素をマスターする気持ちがほしい。坐禅を一つの例として挙げると、安泰寺では年間1800時間坐るので、プロになるのにだいたい7年以上掛かる。もちろん、それぞれの係も坐禅と同じように大事だと思います。安泰寺で三、四年間だけ過ごしても、プロ僧伽にはならないと思う。今のグループはすごく真面目で和気藹々としているけれど、私たち皆安泰寺僧伽修行としては、まだアマチュアだと思います。

プロのオーケストラは安定した物で、注意を逸らす事はできない

プロのオーケストラでしたら、目の前の音楽には百パーセント集中できる。いくら周りがカオス
であっても、音楽がずれる事はない。そういうふうに安泰寺で僧伽を作ってほしい。もし本当に
プロ僧伽であったら、広く短期参禅者受ける事できると思います。いくら不安定状態になっても、
修行の急所がずれないようにすることができるはずです。そしたらいつもの「安泰寺はゲストハ
ウスではない!」というメンバー間の戦いも必要なく、ずっと安定した状態でいられると思います。
つまるところプロ僧伽となる目的はエリートなものとなるのでは無くて、広く人々に尽くすこと
です。一緒にがんばりましょう!