河村

この原稿を書いている11月末時点で、私が安泰寺に来てから3カ月弱が経とうとしています。この3カ月は私の人生の中でトップクラスに濃厚な期間で、あっという間に過ぎ去ったような気もしますし、1年以上も時が経ったような気もします。様々な経験を安泰寺でするなかで、自分自身に対する新しい気づきを得ることが出来ました。そのなかでも、私にとって印象深かった気づきが2つあります。

1つ目は、自分が普段から忙しない心の動きをしていることです。このことには、坐禅をしている最中や坐禅をした直後に気づきました。坐禅をして心の動きが落ち着いてくると、自分がいつも脳内で喜怒哀楽に満ちた独り言を言い続けていたことに気づいたのです。外界や心中で起こる様々なことに、いちいち大げさに反応する。反応した自分自身に対しても反応して、落ち込んだり悦に入ったりする。このような忙しない心の動きを、日常的に繰り返している自分がいました。

反射的に反応して落ち着かない心では、「いま・ここ」に集中することも出来ませんし、自分が精神的に疲れてしまいます。これからの安泰寺での生活では、落ち着いた心でいる時間を少しでも増やし、忙しない心でいる時間を少しでも減らしていきたいです。

2つ目は、いま必要な効率的な作業ではなく、自分がやりたい作業に執着する傾向があることです。このことには、作務をしている途中に気づきました。安泰寺での作務は、周囲の状況や作務の作業量を勘案しつつ、いま何をするべきかを常に考える必要があります。しかし、ときとして私はやりたい作務や自分のやり方に固執し、自分の小さな拘りやエゴを捨てられないことがあります。具体的には、シャベルを使って落ち葉を集めた方が効率的なのに手で集め続けたり、なるべく早く広い範囲の掃除を終えなきゃいけない状況なのに、狭い範囲をピカピカにすることに没頭したり、というような具合です。

自分の我を効率や優先順位を無視して押し通せば、自分の作業が遅々として進まないだけでなく、周囲の人みなに迷惑をかけることになります。また、自分の拘りを捨てて作業をした方が、動き方に一貫性が出てシンプルになり、自分自身もスッキリとした気分で作業が出来ます。これからの安泰寺での生活では、自分の詰まらないエゴをなるべく捨てて、いま自分に求められている動きを考えて実行していきたいです。