無題

ひろ

 私にとっての「自分の生きる道」は、自由な心を持ち、自由に生きるということでしょうか。 私がここで言う「自由な心」とは俗にいう「自由な精神」というものではなく、もっと心の奥深い場所で、エゴによって創りあげられた幻想と煩悩の世界の中でもがいている自分に気付き、そこから目覚め、開放された心を持つ、ということです。 私のいうエゴとは単なる肥大化した自尊心ではなく、あらゆる「思い」と一体化している自我であり、虚構の自己です。

  例えば、そもそも天気に良いも悪いもないのですが、エゴが天気を個人的な問題として捉えて「良い天気」、「悪い天気」といいます。 天気でさえこの調子なら、人間関係などうまくゆくはずがありません。 個人的な憎しみから世界中の紛争まで、人間のあらゆる問題は全てこのエゴから来るものではないでしょうか。 この自分の中に住み着いているエゴの存在と、その働きを常に冷静に観察し、自覚しながら毎日を生活することが私にとっての重要な修行のテーマと言えます。 

 真の「自由」とは、自分のやりたいことをやるということではなく、自我の欲望と恐怖から開放されることだと仏教を通じて学びました。 これは社会の常識とか、概念に縛られず生きてゆく、といってもいいかもしれません。 しかしながら、社会のルールを無視して無責任に振る舞うというわけではなく、一個人として責任を全うしながら、うまくバランスをとりながら中道をゆく、という感じでしょうか。 そして真実を見る目、自由な心を手に入れるには、「不自由な自分」がここにいる事を認め、なぜ不自由なのかを徹底的に探求することから始まります。 

 私は子供の頃から日本を出て、海外で生活してみたいと思っていました。家庭の問題もありましたが、日本社会独特の年功序列、受験戦争、学歴と肩書を重視する社会に閉塞感を感じていました。私が渡米したのは、そのような閉塞感から逃れたいためと、子供の頃から憧れていた「自由の国」アメリカで勉強し、実際に生活したいと思っていたからです。 アメリカでの大学生活では自由の空気を大いに満喫していましたが、常に何かに対し不満を感じていたのも事実です。この不満はその後次第に大きくなっていきます。 

 人間とは何か新しい物事を始めると、最初は謙虚な気持ちでも、慣れるにつれて何かしら不満な気持ちが出てくるものです。 これは人間関係(恋愛や夫婦関係も含めて)でもいえることです。 初めの頃は真新しい経験が新鮮に感じられ、ルンルン気分でいられますが、その新鮮さが失われると欠点ばかりが目に付きます。 だから私たち凡夫は常に新しい刺激を追い求めているわけです。 不満とは文字どうり満たされない気持ちです。 人間の人生とは不満だらけといえますが、うつ病、いじめ、自殺という現在日本社会が抱える深刻な問題は、この満たされない気持ちが沸点に達し、あらゆる形となって現れているのではないでしょうか。

 時代や文化によって「幸せな暮らし」というイメージは千差万別ですが、日本やアメリカのような経済大国では、皆そのイメージを死ぬまで追い求めているように思います。 日本で典型的な幸福のイメージといえば、有名大学に入り、優良企業に就職し、世間に恥じない肩書を持ち、結婚して将来は一戸建てを持つ、というものではないでしょうか。 もちろん良い「イメージ」はもっと自己と密接なセルフ・イメージ(自己の象、印象)にも当てはまります。 ルックス、金持ち、明るい性格、クールな性格、頭の良さ、運動神経の良さ、名誉、人気者、知名度などなど。 

 こうしたセルフ・イメージが欲しくて皆あくせくして頑張る。 自分の名前から始まり、年齢、国籍、出身地、学歴といった基本的な履歴情報や性格、そして教育、家族、社会などから受けたあらゆる影響が混ざりながら、「私」という概念を創りあげ、これが「私」という人間だと信じこむ。 他人に対しても同じ尺度を用いて断定し、カテゴリー化して「あの人はこういう感じ」というラベルを貼り付けて、イメージとして頭の棚にしまい込む。 そしてネガティブなイメージが怖くて仕方ないから一生懸命頑張るし見栄もはる・・・。

 セルフ・イメージはいろいろな要素が集まった「思い」に過ぎません。 人生うまく行っている時は、セルフ・イメージも良くなり、自信もつきますが、そうでない時は小さくなり自信がなくなります。内山興正老師は、思いは脳の分泌物のようなもので、周囲の影響を受けながら、ランダムに沸々と湧き出るものと説明しています。 老師は空気中の温度や湿度でさえ我々の思いに影響を与えているといっています。 つまり「思い」は私たちの頭の中にしか存在しない、常に形を変える雲のような、実体のない空虚なものです。 そのような空想に我々人間は同化(アイデンティティー化)して、「これが私」と信じ込んでいるわけです。 それはまるで夢の中で自分が夢を見ていることに気づいていないのと似ています。

 さらに深く見てみると、「過去」や「未来」というものも、概念であり、私たちの頭の中にしか存在しない。 本当の自分がいるのは「今・ここ」にしかなく、それを実感できるのは、「思い」がない状態です。 要するに、私の意識が「いま・ここ」にある時、虚構の自己が消える。 私という人間は、私が「思っている」人間ではない。 逆にいえば、自分の「思い」を信じることをやめた時、苦しみから開放される。 私がこれに気づき、腑に落ちた時は今でも忘れられないほどの驚きで、まさに目からうろこが落ちるという大発見でした。 あの経験がなかったら、私は安泰寺には行ってなかったでしょう。

 こうして見ると人間の持つ欲望と恐怖は表裏一体であることが見えてきます。 私たちはまるで、頭の中に創りあげた檻の中で、常に欲望に我を忘れ、そして恐怖に怯えながら生きている・・・こういうと大げさに聞こえるかもしれませんが、あながち見当外れではないかと思います。 これはアメリカ人も程度の差はあれ、例外ではありません。 「自由の国」を謳うアメリカでも、十人に一人は抗うつ剤を摂取していると数年前ニュースで話題になっていました。 さらに中年の女性では、四人に一人の割合になるというので驚きです。 経済ナンバーワンで、「自由で開かれた社会」が自慢なはずのアメリカでなぜこれほど多くの人が抗鬱剤を摂っているのでしょうか。 確かにアメリカでは抗鬱剤があまりにも簡単に手に入るという事情があり、しかも抗鬱剤の多くは中毒性の高い薬です。 しかしながら、根本的な理由はもちろん心の問題といってよいでしょう。 

 一般的にいって、アメリカ人は個人主義なので、日本人ほど世間の目を気にしません。 ここがストレスが溜まりやすい日本社会との一番の違いかもしれません。 これが良い意味でも悪い意味でも彼らが大らかで、イージー・ゴーイングと呼ばれる所以なのですが、日本とアメリカでは歴史や文化に大きな違いがあるので、一概に比較するのはフェアではないかもしれません。 それでも一般のアメリカ人の多くは、正直に「私は幸せです」と言いきれる人は少ないと私は確信しています。 

 結局のところ、世界中どこに行っても、「幸せ」を自分の外側に追い求めている限りは幸せにはなれないのだと気づきました。 逆にいえば、心の平和を自分の内面に見つけることができるならば、世界中のどこにいようが、それこそ刑務所の中でも本当の「自由」を手に入れられるのではないかと思います。 その心の平和と「自由」は私たちが一般的にイメージする「幸せ」などよりずっと奥深く、「不幸」という思いさえも包み込む無限なものなのではないかと思います。

 アメリカでは大学とか家のローンを払うためや、昇進やボーナスのためにあくせく働く人生をよくラットレース(ネズミの競争)と呼びますが、これはなにも会社員に限った話ではないと思います。 先に述べたように、人種や国籍に限らず私たちほとんどの人間は何かしらのイメージを追い求めているネズミのようなものです。 大半の人はラットレースに勝つことに必死で、もしそんなレースに勝ったとしても満足感は長続きしませんし、なによりも自分がネズミであることに気付いていません。 

 安泰寺はある意味社会を凝縮した小世界のようでした。 世界中からいろいろな人たちが集まり、一緒に暮らし、働き、坐禅をする。 人種や文化の違い、言葉の壁もあり、意見の衝突、うまくいかない人間関係など、これは一般社会で起きることと同じです。 人種、国籍、仕事を問わず、私たちは競争したがる動物で、禅寺でも例外ではありません。 私はそれでも良いと思います。 なぜなら、私たち凡夫は苦しみを経験することによって自分のエゴの存在に気づくことができますし、人の気持ちを察したり、思いやりの気持ちを持つことができるからです。 そして私たちの中に存在するエゴとその働きに気付くことによって、その先に真実が見えてくるのではないでしょうか。 真実とは、私たちは一つの命であり、皆繋がっているということ。 そしてエゴもまた何かしらの目的があってこの世に現成しているということ。 人間は苦悩しなければ幸せの意味もわかりません。 もちろん安泰寺の参禅者の多くは自分の内面と向き合うために来ているので、つらいことがあってもそこから学ぶことは非常に大きいと思います。 こう書くとまるで安泰寺の修行は苦しいだけという印象を与えかねないですが、もちろん私は素晴らしい仲間と出会い、苦しい時もあれば、楽しい時間も共に過ごしました。 それは私にとって一生の思い出となるでしょう。

 社会では、お金を稼ぐために、ローンの返済や家族のためという面目で、ラットレースを仕方なくする人もいるかもしれません。 しかし、安泰寺のような修行道場では何も失うものはありません。 自分が自由になるということは、自分に100%正直に生きなければなりません。 そして自分の生きる世界もあるがままに、自由にしなければなりません。 他人に同意されようが、反対されようが、好かれようが、嫌われよう、尊敬されようが、軽くあしらわれようが関係なくその人をあるがままに見つめることができるでしょうか。竹のようにしなやかに、押されても抵抗せずに曲がる。 曲がるけど芯の強さがあるから折れない、といった感じでしょうか。 私にはできませんが、これをできる人はすごいと思います。 そして相対する人も肩すかしをくらい、自分のエゴに気づくという効果があるようです。 また、他人のエゴが見えた時、それを指摘し、批判したがるのも自分のエゴだと気づくのが大事だと思いました。 他人のエゴを批判することによって自分が上に立った気分になるからです。 また、エゴを捨てることはロボットのような感情のない人間になるわけではありません。 エゴの正体とその働きを知らずに強引な「無我行」をやってもあまり意味はないのではないかと思います。 なぜなら私たちが普段の生活の中で経験する苦悩だけで十分だと思いますし、「エゴを捨てろ」という命令そのものがエゴから来ているからです。 

 意見で誰かと対立した時、議論に勝つことだけに執着し、もし相手を打ち負かしても、それは自分のエゴに敗北したことを意味します。 「意見」とは結局は概念であり、「思い」以上のものではなく、真実ではありません。 意見を持つことは必要ですし、それは私たちが社会を生きる上で大事な知性の道具です。 だから私は、なにも意見を持つことが悪いといっているわけではありません。 しかし私たちエゴと意見が一体化し、そこにアイデンティティーを見出してしまいます。 人間は自分の意見を否定されると、まるで自分の存在価値が脅かされているかのような錯覚に陥ります。 これも幻想でしかないのでが、非常に難しいところです。 客観的に見つめると、議論の内容がなんであれ、エゴにとって本当に大切なのは意見そのものではなく、自分が正しいと証明することであり、間違っていると証明されることは死を意味する、という真実が見えてきます。 そういう私も、いくら「私は私の意見ではない」といっても、やはり同意されると満足感を感じ、否定されると居心地が悪くなります。 これは体に染み付いた癖のようなもので、なかなか消えることはありません。 私にとって坐禅とはこのような癖を取り除く作業だと思っています。 「いま・ここ」に意識を移すことで、絶え間なく「思い」が湧き出る心を落ち着かせ、現実をあるがままに見つめることによって、少しずつ体にこびりついた癖を落としてゆく。 そして坐禅の心を持って普段の生活を生きる。 坐禅の心は錨(いかり)のようなものだと思います。 (今思い出してみると、輪講の時これを「怒り」と誤解されたかもしれません。英語でも「錨」はアンカーで、「怒り」はアンガーと発音するからです。)湧き上がる「思い」に流されないように、しっかりと錨で自分という船を固定するという意味です。

 私が「自由の国」アメリカに渡りすでに18年。 さて私は本当に今自由といえるのか。答えは”Yes and No”です。 自分の好きなことをするというレベルでは日本にいた頃よりも自由があるといっていいかもしれません。 しかしながら内面的には自由とはいえない。 それはなぜか。 それは私のエゴが欲望と恐怖のはざまで、自分の「思い」を通して「私の世界」を経験しているからに他なりません。

 現実という世界を私の頭が自分なりに解釈し、咀嚼し、断定し、信じているからです。 「私」という本当の自分は私がイメージする人間ではないということ。 その思いと一体化(アイデンティティー化)しながら生きているうちは絶対に自由にはなれない、ということに気付いたのです。 

 安泰寺で送った4ヶ月間の生活では、サンガという鏡に自分の未熟さがよく見え、周りとの調和をうまくやりながら貢献する重要さを体験しました。 安泰寺の教えは自我を捨てると同時に周りの人と調和しながら、自分の特技を活かしながら社会に貢献すること、そのバランスの取り方だと思いました。

 ありきたりのようで、非常に難しい。 正にこれが人生を生きる極意なのかな、などと漠然と思うところであります。 また、日本とアメリカで人生の半分ずつを過ごした私は、日本と西洋文化の持つ長所と短所を安泰寺のサンガによく見ることができました。 安泰寺での経験を活かし、私自身の生き方と、そして世界に何らかの形で還元出来れば素晴らしいと思っています。