無題

愚聖

Muho


 重荷背負いて道歩む
 我が仕合せは茫漠の
 荒野のなかにひとり居て
 木も枯る冬の寒風の
 骨の髄まで涸らすが如し

これは十年近くまえに、私が作ったものです。
このころは人生がまったく暗くて、私は絶望ばかりしていました。
人とは感覚が合わないし、話もうまくいかず、関係も築けず、軽蔑され、
労働して社会に貢献したいとも思わず、そういう自分を卑しいと思いつつ、
人生により一層高い価値のあることを思って、
しかし何をしたらよいのか分からず、
むしろ人生は苦しみばかりだと失望して恐怖におののき
暗々鬱々悶々としていた日々でした。

甘やかされて育った若者は
その甘い夢のなかで絶望しやすいものです。
そして絶望しつつ、その蜜を密かに吸うのです。
私は嘆きながら、内心では自分を哲学的で奥深い人間だとほくそ笑んでいました。
しかし現実に食べていくのは容易ではありません。
若いうち、人生に絶望するのはいとも容易いことです。
絶望しないほうがよほど難しい。
しかし、「命は弱さを許さない」(ドイツの独裁者)。
人生を暗がって喜んでいる人たちは、己が腹黒さに落胆したほうがよいでしょう。

実際、今の私は当時とあまり変わっていません。
相変わらず、人がきらい、話もきらい、怖がりで、身体と頭が鈍く、
社会の福祉にも労働にも興味がない、
宗教的な何かを願い求めて右往左往しているばかりなのですが、
自分に絶望しなくなりました。
人生は苦しい、自分はできそこないだ、
実際そんな気もするのですが、
そういう人生観は実のところ、「それがどうした?」で一蹴できるものです。
どうせうまいもの食ってんだろ。

道を歩むという人生観も、私には変わっていません。
先の詩のとおり、暗い、乾いたといいながら、
若いころから私は前向きに人生を歩もうとしてきました。
「重いまつ毛のしたに涙があふれ留まろうとも、断固としてこらえ保て。
あるいは高く、あるいは低く、くねり曲がって正しい道の見極め難いこの人生の旅路において、
確かにお前の歩みは坦々たるものではないだろうが
しかし徳の力は必ずお前を良き方向へと前進させるだろう」(ベートーヴェンの手記)
道がなんなのかよく分からないにせよ、
こういう言葉を好んで感激するような
単純な人ほど人生の道に向いています。

さいわい仏教に縁ができて、修行者、道の人となることができました。
道を模索し、歩むことを生業とするホームレスです。
真理は常に裸の自分ひとりの前に屹立しているものです。
自ら真理を追究するのが沙門ですから、
道元宗とか長老宗とか、ナントカ宗の真理には興味ないです。
組織や集団が真理を鼓吹すると、真理がゆがみます。
宗教者の信仰は、真理そのものに向かわなければならない。
特定の人や集団に向けられるものであってはなりません。
もっとも信ずるに値するものを、私はみずから見つけます。
そしておそらく誰にも相手にされず、何にも伝えられず、
やさしい自然に看取られて、ひとり静かにノタレ死んでいくでしょう。
これが私の生きる道です。

愚聖