安泰寺での料理
慈念
ここに来て2年が過ぎ、大事な修行の一つである料理も幾度か台所に立ち、やらさせて戴きました。私は他の参禅者と比べると気が抜けているようにも思われ、これから書こうとする事が的外れであったり、甘かったりする事もあるかと思いますが安泰寺を全く知らず、且つ安泰寺での修行に興味のあられる方へ私の私見を書かさせて戴きます。
曹洞宗と呼ばれているお寺の開祖は道元禅師。道元禅師は20代の時、宋(中国)へ修行に行きそこで出会った典座(お坊さんに調理をする人の事)に感動して修行の意味を坐禅のみではない処にも見出す契機を得ました。その事が御縁となり、安泰寺でかまどの火を見る私がいます。
私が安泰寺に来て今もこちらでお世話になっている理由は、坐禅と農業に携わる事が出来るからです。坐禅と農業をする事で生きる上での大切な何かが分かる。そう想います。そこで、何か分かった?と聞かれてもまだ言葉には出来ません。「どう?」「う~ん、分かったような、分からないような、でも、何か手応えありますね。」といったところです。ただ、生きる上で大切な何かはそこかしこにもあると私は想います。
安泰寺には坐禅がしたいから、とか農業をしたいから、とかお坊さんになりたいから、とか変わりたいから、とか色々な理由で人が来ます。そこで典座をする事になると嫌な想いをする人もいるように思いますがその逆の人もいます。どちらにせよここでの長期滞在を希望する参禅者にとっては避けて通れないのが典座になります。私は料理に関心があった方ですのでオズオズとではありましたが台所での時間が実りあるものに感じ、今もそのように感じ入る事が多いです。
さて、料理で一番大切な事は何でしょう?
ある、料理人が「真心」と述べられていましたが、道元禅師の言われていました「老心」とも通じるものがあると思います。私が台所で心を落ち着かせる言葉は、「料理は真心である。」です。現代っ子ですので老心はいささかピンと来にくいものです故「料理は真心である。真心欠ければ料理では無い。」がしっくり来ます。
私は私の為に料理をし、食べますがそれが私だけの為であったならばいけないと思います。たとえ自分一人が食べるのだとしても、その目の前の食材はこの星が生まれてから連綿と繋ぎ継がれてきた命であります。この命は私のもののようで私のものではないのです。その事を理解するのは難しい。想像することはできますが、実感としては我が物顔をしていつも私、私、と欲望で食べて、この身体で食べていないのがこの「私」です。そうであるから、毎朝称える、「一つには項の多少を計り、彼の来所を量る。」には頭が下がる思いがします。
安泰寺での典座は、交代制で今現在は1ヶ月に1回、5日間行います。食材は畑や野にある食べ物で賄い、時に頂き物も使わさせて戴きます。その時その時で食材と向き合い、筍どうしよう?葉物どうしよう?トマト、きゅうり、どうしよう?と頭を使います。筍、大好き!と言っても大量の処理に追われだしますと好き嫌い言ってる暇がなくなります。サッサと片付けなければならない。料理屋さんではないので、何を御出しするのかが決まっていません。ですから手順を組み立てる事はとても大切だといつも思わされます。其の辺が上手な人は忙しくても落ち着いて動けるように思います。
今月(11月)の接心(5日間坐禅三昧)では私が典座に当たりました。これは今回初めて感じたことですが、接心の3日当たりから坐っている参禅者達の気配に無駄が削がれている、と。私は典座でワーッと(仕事が甘い故。)やっていました分、余計集中的に坐られていた参禅者達とのギャップを肌で感じました。本来は、私も同じように心を研いで行くべきなのですが現実は甘くない。接心の間で寒い日が何日かあって、鼻をすする音を聞くようになってから風邪を引かさせてたまるか、とレモンティーや使いにくい生姜(安泰寺では採れない為)を削ったりしましたが、接心後に風邪を理由に下山される方を出してしまったり、極当たり前のご飯の炊き具合の不備や薬味を御出し出来なかったりと穴を開けてしまったのも事実です。それが人生だ、と言われれば、そんなものかも知れないなぁ、とも思いますが簡単に悟ってはいけない。たとえ事が完璧に行こうが行かなかろうが、心を使うことに終わりがあるのかどうか。
料理の後片付けはとても大事です。僕はそこをきちんと出来る人間になりたいと思っています。
最後に、安泰寺では里芋が沢山採れるので里芋はいつでも好きに使えます。最後に私の好きな里芋のレシピを書きます。もし気になられた方がいたら試してみて下さい。里芋をサッと下茹でしてぬめりを洗い流した後、出汁で茹でて一晩漬けてからザルにあげ片栗粉をまぶして揚げます。揚げるので、茹ですぎない事が気をつける所です。
料理が修行であると言われてもピンとこない方もあるかと思いますが、その実、在家の女性が尼僧になることで解放されるものの一つにブッダは料理を何処かの経典で上げていたようにも記憶しますが、日常がそのまま修行であるという思想は普通に生きてきた私には理解できるものです。今居るところで心を使う事。言葉に書く程、現実は甘くないけど四の五の言わずに今居る処で今やるべき事がある、と野菜が私を促しているように思う今日この頃であります。
2014、11、15。
慈念。