無題
覚
安泰寺に上山してから2カ月あまりになろうとしています。振り返るには短すぎるようにも思うけれども、「食」ということを中心に大きな思考の変化があったので、それについて書いてみたいと思います。
私が今まで生活していた環境では食物というものは、すべて何らかの形で加工されたものでした。私は食べ物というものを出来合いの商品という形で購入して消費する毎日だったので、安泰寺のような山寺に入っても無意識に同じようなことを期待していたようです。私の場合、典座さんが調理してくれた食べ物を当然のように無自覚に食べ、しかもその日に食べたものは何も覚えていないという形で、その期待は現れていました。しかし、安泰寺での作務のなかで行われている作務の多くが「食」という現実に直接関わっているということ、そのような作務によって安泰寺で生活する人々の命が支えられているということ、このような作務の実態を体験して今までの自分の生活を振り返って見ると、あたかも地球の軌道上に浮遊する人工衛星のような生きた現実から遊離した環境のように思えてきます。人はパンのみにて生きるにあらずという言葉もありますが、現在の日本ほど自分の身体が何よりも先に食物によって養われているという現実が忘却されている時代もない気がします。その意味で、安泰寺では最も基底にあって普段は忘れ去られている「食」いいかえれば「命をいかに支えるか」という現実が表面にむきだしになっていると感じるのです。寺で行われる作務の1つ1つが自分たちの命を支えていると実感すると、どのような作務も一生懸命にならざるをえないというか、皆の生死に関わることでおろそかにはできないという畏れにも似た感情を味わいました。お恥ずかしい話ですが、労働している人の姿や日々供される食事を見て「有り難いなぁ」と心底感じたのは、安泰寺に来て初めてのことです。一生懸命な労働は深めれば宗教性につながると思わされました。労働を排した宗教はどこかゆがんでしまうのではないか?とも。
また、寺での生活のサイクルが非常に巧みに設計されていることにも驚かされました。日常の作務が一段落した日、各メンバーによるレクチャーがあって自分の実践の方向性を確認し、翌日は一日、坐禅に集中する。そして放参という休息日。一カ月の作務と坐禅が頂点に達した月末、堂頭による正法眼蔵の講義を拝聴し、月始めから五日間の接心に入ります。ただ「在る」ということにひたすら徹する五日間、作務によって養われた自分の心身が瞬間、瞬間に「在る」という最も根底にある現実を切実に感じます。
このように、安泰寺での作務や坐禅は私が「生きている」あるいは「死ぬ」という現実と直接つながっている。このことは作務を行うときの充実感や喜びを通じて私の心と身体を大きく変えてくれそうです。これからの安泰寺の生活がとても楽しみです。