大人の修行
のぶ
今回のテーマは「大人の修行」というものだが、実際に書くとなるととても恥ずかしいものです。なぜかというと、本当の「大人」がわざわざ「大人の」と断りをつけて何かを述べることはないと思うからです。例えば、「真の大人とは~」と飲み屋で若者相手に講釈を垂れている人を見て気づくことは、その人自身が「大人」になってはいないということでしょう。反対に、子育てに追われて自分のことは後回しで、子どもに全身全霊を注いでいる人を見れば、その人の子育て論など聞かずとも自ずと見えてくるものがあると思います。理屈で言えば、眼が眼自身を見ることが出来ないように、刀が刀自身を切ることが出来ないように、もし「大人」になりきっている人からしたら、その人自身は「大人」とは何かを見ることが出来ない。その人が大人か否かは、周りが判断することなのだと思います。
では「大人」になりきっている人の目には何が見えているのか?それは自分の「幼児性」でしょう。言い換えれば、自分のダメな部分が眼前に広がっているということです。だれでも何かに熟練してくれば、自分の「成功」よりも、初心者のころには気づくことができなかった様々な「失敗」が見えるようになることは経験していると思います。禅の修行でもこれは一緒だと感じます。安泰寺では年間に 1,800 時間坐禅をします。安泰寺にくる参禅者は、「これだけ坐れば何か得ることができるだろう」と誰しも考えますが、実際にやってみると全く違うことがわかってくると思います。最初の頃の坐禅に対する全能感など消え去り、坐れば坐るほど、坐禅から「外れた」自分が多く見えるようになってきます。「外れた」かどうかは「何から外れたか」が身体に染み入っていることが肝要です。坐禅をして「悟った」とか自慢気になっているのは正に自覚のない「幼児性」の顕れで、「大人」であったら考えにくいことだと思います。
しかし、自分の「幼児性」を見続けるのはかなりの辛抱が求められます。たまには自分の「大人」な部分が見てみたいと下心が覗くこともあります。そして生活の中で修行の場と、修行ではない場といった区別をつけてしまうこともある。けれども、禅の主張では坐禅だけでなく、日常生活すべてが修行の場だとされています。つまり、大人が修行するということは、どこまで行っても汲めども尽きぬ自分の「幼児性」と向かい合い続ける覚悟と共に行ぜられるべきものだと考えています。