私が安泰寺に期待すること
越智
先日、ドイツ人男性の参禅者と側溝を作る作務をしていたときの事。
この側溝作りは着手してからすでに1か月を経過しており、私はどう考えても時間がかかり過ぎだと感じ、自分の作務を一時中断して彼の作務に加わる事にしました。
コンクリート製の側溝を埋める為に固い地盤をスコップで掘り起こしたり、側溝と側溝の隙間を手で練ったセメントで埋めたりと、確かに大変労力を要する作業だと感じましたが、それでも何故これ程までに時間がかかっているのか首を傾げざるえませんでした。
しかし、彼と一緒に作業をしているとすぐにその答えが見つかりました。
彼は何も効率の悪い作業をしているわけでもなく、またサボり散らかしてるわけでもなく、ただ黙々と作務をこなしています。
ただ1つ言うならば、彼の行う作業が、どれもとても細かく、そして丁寧であるという事です。
側溝と側溝の段差を1ミリ単位でズレを調整していきながら、何度も土を掘り返しては埋め直したりと地道な作業を延々と繰り返しながら1つずつ側溝を埋設していっているのです。
こんな作業を続けていたらそれは時間がいくらあっても足りないと納得しました。
それでもその日。なんとか最終的に仕上がった側溝は専門業者が行った作業と遜色ない程の完成度で終わりました。
安泰寺での作務は専門的な工具もあまりなく、多くの作務を素人が手作業で行う場合が多々あります。
私はいつもそのような現状と作業時間を加味して、機能的に問題がなければ、「だいたいこんな感じでいいかな?」という程度なとこでいつも作業を終えていました。
実際にこの側溝作りを終えても、自分ならこの作務を半月以内で終わらせる事もできただろうし、その残りの時間を他の作務に使えただろうと感じていましたが、同時に、きっと私の作った側溝は機能的には問題はないのだろうが、歪な段差がある少し見てくれの悪いものになっていたような気もします。
多くの時間をかけて、完璧な作業をする。
時間をなるべく短縮して機能的に欠陥がなければ問題のない作業をする。
こういった事例は、私だけが直面した場面でなく、安泰寺の中で生活する欧米人と日本人との間でしばしば見られる光景である。
普段の掃除や作務などに膨大な時間を費やして完璧にこなそうとする欧米人。
すべての事において効率を考えて時間を短縮し、少しでも多くのタスクをこなそうとする日本人。
どちらが正しくて、どちらが正しくないかといったような問題ではないし、もちろん言葉の問題もあるのだろうけど、やはりこういった感覚を共有し合う者同士が集まり、ひいてはそれが日本人は日本人同士で集まり、欧米人は欧米人同士で集まるってしまう。
安泰寺という寺は、知っての通り、自給自足で生活をしており坐禅もこれでもかというほどしている所でもあり、そこに何か考えるところがあって各々が参禅しに来ている所であるが、もう1つ重要なところは、ここは日本人と外国人が半々で共生して修行している場所であるという事。
そういった場所で、日本人同士。欧米人同士。といったコミニュティが出来てしまうのは自然な事なのかもしれないが、少し残念に思う。
作務だけでなく、普段の生活や寺内での作法における両者のスタンスも大きく違う場面が多々あり、その都度、お互いが「自分達の方が正しくて相手が間違っている。」といった互いの思いが緩やかな対立を生み出しているように見受けられる。
私自身も、そういった事を感じる場面も今でも多々あるが、「相手が間違っている」というよりも、「自分とは違う」という事を受け入れて、この「違う」から多くを学ぶ部分がある事を気付く事ができるようになった。
違いを受け入れてみれば、冒頭のような作務の仕方にしても、今の私自身では時間的な事など否定的な部分があるにせよ、自分自身の作務に対する姿勢などに気付きを得る事ができる。
欧米人のように 、「多くの時間をかけて、完璧な作業をする。」
日本人のように、 「時間をなるべく短縮して機能的に欠陥がなければ問題のない作業をする。」
上記の問題はとても難しいが、修行者としては「時間をなるべく短縮して完璧な作業をする」を目標としてやっていかなければならない。
作法にしても、日本人はヤレと言われれば黙ってそれに従うが、意味を理解してない故に作法も上滑りしている場合が多見される。
欧米人の場合は作法の意味に納得できるまでヤレと言われても「but」「why」などと文句ばかり垂れて中々やろうとしない。
この場合は「作法の意味をしっかりと理解し、同時に今自分がここで何をすべきか?」という事を瞬時に判断するべきであり、それが修行者の姿勢だと思うが、これが日本人だけ、欧米人だけの場所だと簡単なようで実際にやってみると中々気付きにくいのではないかと思う。
幸い安泰寺は今現在、多種多様な人種が揃っているので、お互いの長所、短所と言えば、少し語弊があるかもしれないが、お互いが理解しあい、もう一歩踏み出しあい、有機的に交わり、日本人だから、欧米人だからといった捉われをなくすとこまで到達すれば、その多種多様な人種の価値観をそのまま得る事ができ、それが普段の各々の行動や物事の考え方に奥行きや大きな幅を与えてくれるのではないかと思います。
越智