安泰寺に期待する事。

自然

Muho


 坐禅を中心とし、自給自足の生活を山の中でする。その内実はどうであれその枠組みは面白そう。そう思い安泰寺に赴き、気がつくと数年が過ぎていました。坐禅を組めば少しは賢くなるのではないのか?大自然に囲まれて働き、食べ、寝る、そんな生活は人にとっても自然な営みなのではないのであろうか?そのような事を考えもしましたが、来た当初を思い返しますと何故か疑問よりも知ったかぶりの心持ちで坐り、深い考えも無しに働いていたように思います。
 様々な人が入っては出て行くのを見て来ました。坐禅が嫌いで畑仕事が好きな人、坐禅も仕事も程々に好きな人、とにかくよく働く人、意固地な人、気遣いのよく出来る人、色々です。みんな思い思いにやって来ては去って行きます。
 ここでの生活はスケジュールが決まっているのでその枠組みを守る事が必須です。起きる時間、働く時間、食べる時間。それらが守れないなら下山しなければなりません。私は来た当初よりここの生活リズムがとても心地良く感じました。時々キャンプファイヤーをしたり、その時にお酒を飲んだりもします。初めは凄い違和感を感じましたが、そういった事も大事な事なのだろうなぁと思います。個人的にはお寺でお酒を飲み、人のうわさ話、悪口、中傷をしたりするのは場違いな行為だと思いますが、時にはそういった事もあります。逆にそういった事の全くない世界を期待するのは人を知らな過ぎるのかもしれません。
 人にこうあってほしい、と言う期待はよく裏切られるものです。傷ついたり、腹を立てたり、卑屈になったり、関わらないと決め込んだり、不安になったりする事はあるものです。安泰寺に居ても安泰じゃない。自分でどうにかしなければいけない問題は何処へ行ってもついて回るように思います。安泰寺へ行けば、あそこの老師の下へ行けば、坐禅をすれば何とかなるんじゃないのか?そのような期待は得てして裏切られるように思います。
 向こう側にどうにかしてもらおうと期待するのではなく、自分には何が出来るのか?その事を自分自身に問いかけたいと思うものであります。 
 

 慈念。
 2016/11/15