私が安泰寺に期待すること

yoga


 今年の文集のテーマは「私が安泰寺に期待すること」であるが、思うに、中々トリッキーなテーマだ。なぜなら、安泰寺のHPに「あなたが今生きているこの瞬間の命のほかに期待するものが一つでもあれば、必ず失望するでしょう。」という堂頭の感銘深い言葉が掲げられているからだ。サンタさんにリクエストする子供のように、うっかり期待することなんか書いたらマズイのではないか・・・。そんな気にもなってくる。
 しかしながら、何らかの期待というものがなければ安泰寺に来るという選択自体、成り立たないのではないか。安泰寺に来る参禅者の誰もが最初は、強烈な期待感と希望に動かされて山深い禅道場に来ているはずだと思う。私自身、何らかの期待をもって上山したはずであるが、もうそれがどのようなものであったのか、トンと思い出せなくなってしまった。それは期待が叶えられたり裏切られたりしたからではなくて、安泰寺での坐禅や日々の作務に没頭するにつれ、安泰寺への期待など意味をなさなくなってくるからだ。悪天候続きで生育不良の野菜という実物を前にして、頭の中の期待や願望など何程の意味を持つだろうか。天候を予測し、土と野菜の状態を見極めて、やるべきことを一生懸命にやるだけだ。
 また、人にもよるだろうが「私が安泰寺に期待すること」はしばしば、「安泰寺で、このような私になりたい」ということになりがちだ。安泰寺での生活のパラドックスは、安泰寺ライフへの期待を失い失望を繰り返すことによって、かえって安定した「私」という人を欺きがちな保証を超えることができるということだ。「放てば手に満てり」と、道元禅師の言葉にもあるように、「私」という自我意識に起因する期待や願望を忘却すればするほど、不思議なことに、ありあまるほどの何かが心身にあふれだしてくる。それが「あなたが今生きているこの瞬間の命」というものだろうか。
 よって、上山から2年を超した私が「安泰寺に期待すること」は、敢えて「より大きな失望」としたい。私は安泰寺ライフに妙な満足感を感じ始めており、今のままでは曖昧な期待に包まれながら安泰寺での3年を迎えることになりそうだからだ。安泰寺への期待が失望によって削減されることで、真の安泰寺を発見する道が開けると思っている。