「一日不作、一日不食」

恵光

 最近、不注意で、右手小指第二関節を深く切ってしまい、病院で5針縫ってもらう破目になった。小さな傷ではあるが、局所麻酔、縫合したこともあってか、翌日は腫れがあり、右手を使うと自然に小指も動いてしまい引きつれる感じがあり、痛みをともなう。朝の掃除ではなるべく動かさないよう左手だけで掃除をした。

 それを見ていた他の人は自分の掃除場所を大方終え、「後は私がします」と、廊下を拭きを終えた私に負担をかけないよう配慮として声をかけてくれ、雑巾を洗い、バケツと共に片づけてくれた。「ありがとう、ゆっくりだけどできるので私もやります」と、私も一員としての役割を担う責任があるという思いを伝えた。その時、百丈懐海禅師の「一日不作 一日不食」が浮かんできた。

  私も怪我をしてても食べる(食べなければならない)しトイレだってしなければならない。それと掃除は同じこと、とフッと脳裡に上ってきた。あぁそうか、生きるということは食べること、トイレに行くこと、お風呂に入ること、寝ること、日常の生きていくために必要な行為、行動が生きる行為だ、ナルホド!と腑に落ちた気がした。だから道元禅師は典座教訓も書かれたし赴粥半飯法も書かれた、洗面、トイレなどなど日常の行為について細かく書かれたのだなぁと。

 

 安泰寺の広間にもこの言葉が掛けてあるが、百丈懐海禅師は、従来の修行の在り方を変革し叢林で生きる手立てを、托鉢やお布施に頼らず、作物を作り建物の修繕をし修行生活を自ら支えていくこと、そのための作務(労働)こそ重要な禅修行であるとして、これまでの仏道修行の在り方を180度解釈を改められ、その労働の中にこそ仏を見出すという修行の在り方を構築された。

 正に「生きる」とは食べて排泄して寝る。さらに言えば人間も動物の一種、動く物(者)である。生きることに活動も含まれる。生きるとはそういう根源的なことである。「生きる」ということを漠然としていて何か特別なことをすること、ととても難しく考えていた。というかどこか遠くに求めていたように思う。

 百丈禅師は、高齢でも、現に「生きて」動けるのだから、その当然の行為として作務(農作業や掃除)を皆と同じようにするよ、しないのなら食べることも同じようにしないよと言われたのだ。

 道元禅師は中国留学から帰って来て「眼横鼻直」眼は横に、鼻は縦についていると言われたが、ごく当り前のことに気付かず疎かにしていること、自分の足元、身近なことが仏法であるということを教えられている。今回のことで「眼横鼻直」これを生きるということは実はいつも何気なくやり過ごしてしまっている日常のこと、食べて、排泄して、眠って、活動している、もっと言えば呼吸さえしているこのアタリマエで気づきもしていないことを自覚して、どのように行為していくかということなのだ。

 今年「自身の生き方を見つめなおして」というタイトルで雑誌に投稿する機会を得た。その中で私は「どう生きればよいのか」という問いかけが現在の私につながっているということを書いた。そして「どう生きればいいのか、答えは容易には見つからないが」と締めくくっている。その答えは正しく「眼横鼻直」今の自分の足元、生きている行為そのものを指しているという気づきと、その生きる行為をどのように行為していくかということが生き方と言えるのだ。生き方を問うということはすなわち生きる姿勢、日常の何気なくやっていることに気付き、今、現在に目覚め、それをどのような姿勢で行っていくのかを問われているのだ。

 怪我の功名「一日不作、一日不食」という生き方。