人生の半ばで安泰寺に来てみて感じた事
高橋
2019年10月6日から安泰寺に上山して早五か月が過ぎようとしています。きた当初は禅と言う物を全く知らなかったし仏道修行がどう言う物なのかも分からずに自給自足の生活と座禅修行に憧れてきました。
元々コックをやっていた私は自給自足で採れた作物を調理したり地元の猟師さん達から頂ける猪や鹿を捌いて解体、精肉して調理するのが楽しみで仕方ありませんでした。
典座をやるのが楽しみで仕方ありませんでした。そしてその夢はすぐに叶い楽しくて仕方ありませんでした。しかしそのうち調理作法や色々なルールが一般の世界とは違う独特なルールがある事、その事を指摘される様になり始めてから色々と戸惑いました。
例えば食材を微塵切りにする時に音を立てるなとか、切った食材を包丁の刃の方で集めると注意される、一番驚いたのは台所のシンクを洗剤で洗おうとした時に頭ごなしに
そんな無駄な事しないでくれ!洗剤の無駄だからと言われた時には流石にキョトンとしましたし、正直に意味がわかりませんと言ってしまいました。最近は慣れましたが何故かカレーライスを食べる時以外はスプーンを使わないと言うルールにも中々馴染めませんでした。例えばカレーライスはスプーンで食べるのにクリームシチューは箸でたべる!クリームシチューの時にスプーンを出すと怒られるみたいな感じで一般の生活では当たり前にやってる事が些細な所なのですが微妙に違う、
人間は普段生活で当たり前だと思って生活してる事が少しでも違うと中々受け入れられない物なのだなぁと実感致しました。
そしてその些細な違い独特な安泰寺でのルールを受け入れる事、当たり前だと思っていた自分の一般生活でのルールを手放すのが禅の修行だと初めて教わりました。しかし中々それが難しい、指摘されると納得できる事と出来ない事もあるし、指摘した事を丁寧に教えてくれる事もない時だってあるし
心中穏やかになれないない時なんてしょっちゅうです。しかしそれは我見や我欲があるからだとか色々な経典を読むうちに学びました
仏道修行をする者はコップに一杯に入っている水を一度空にし無くては何も意味がないと
学びました。例えば東大や何処かの学者さんだとしても、仏道修行に入る者は一回その知識や経験を全て捨てて仏の道に入らなくては行けないと。最初の壁はこの我見我欲を離れる事、今は最初の頃よりは色々な事を受け入れられる様にはなって来ましたが、中々難しく色々な事に囚われてしまう事も多いです。
それの繰り返しです。
初めて11月の五日間の接心を体験した時に
世界中から約20人の人達が集まり座禅をしました。最後の座禅が終わった後にネルケ老師から提唱が有り話された事に私はドキッとしてしまい衝撃を受けてしまいました。内容はと言うと【僧堂で五日間接心をして一日中15時間座禅をするのも修行だけど何時間座禅したとか何か特別な事をする事なんかより大切な事が有る、それは日々の生活において使わない電気のスイッチは切る、脱いだスリッパや靴はキチンと揃えておくなど普段の当たり前の些細な物事をキチンと丁寧にやる。幼い頃両親や学校の先生などに教えられた日常のほんの些細なルール、それがいつのまにか大人になるにつれてやらなくなっている事に気が付く、そう言う事をキチンと毎日やるのが本当の修行なんだよ】と、おっしゃったのを聴いて私は心底反省をしてしまいました。小学校の低学年の時から素行が悪かった私は親や学校の先生、大人達の言う事に反発して大人になり今迄参りました、それでも社会に出て42歳の今に至るまで最低限の社会性は身につけてきましたが、去年の3月に父が他界するまでに最後まで良い息子でいられなかった事に気がつかされた思いがしました。【じゃぁ俺小学生からやり直しじゃん】と心に思いました、それから今迄の事を反省し思い直し心のオーバーホールをしてる様な感覚の毎日を送る様になりました。それはそれで幸せな事の様な気がします。人生の半ばでこんな貴重な時間が取れるとは思っていませんでした。今は冬安居の真っ最中、冬のレポートや
輪講、今年は典座教訓に悪戦苦闘しております。しかしテキストを読み色々な調べ物をするうちに知識が少しずつ深まって行くのを感じる喜びを感じるようになって来ました。仏教的に言う無明にいた私がほんの僅かでも智恵に触れられていると言う喜びなのかもしれません。経典や辞書やパソコンに何時間も向き合う、元々勉強嫌いだった私にとって初めて勉強と向き合う、これはこれで良い物だと思っています。まだまだ悪戦苦闘の日々では有りますが少しでも自分自身を深めて行けたらと思っています。