安泰寺の修行  

今年は4月からNHK神戸の取材を受け入れました。ローカル番組のコーナーで安泰寺を取り上げ、季節ごとに安泰寺の四季を放映するという計画です。ディレクターさんは季節毎の安泰寺の様子を撮影したいと、安泰寺でこの時期何が行われているのかを尋ねてこられます。それは8月のことでした。安泰寺の8月と言えば、夏休みシーズンで特別な夏の何かというのはありません。あるとすれば、魔の炎天下で延々と続く広大な境内の草刈り、草集めです。ちょうど撮影に来られる数日後に毎年この時期に施食会法要に行かせていただいていることを紹介すると撮影することになりました。そこに続いて質問をされました。

安泰寺ではお盆はどのようなことをしますか?

⇒安泰寺では特別にお盆の行事をしない。

では皆でお墓にお参りはしませんか?

⇒いいえ特別にそのような時間を設けていません。

それでは一体安泰寺では何をしているのか?という疑問が私に沸き起こってきました。

専門僧堂や普通のお寺では毎日朝課、晩課でお経を誦えます曹洞宗の朝課では仏殿諷経(釈尊に向けて)、応供諷経(ご供養をくださっている人々や一切の者、物に向けて)、祖堂諷経(釈尊から自分の法系にいたる代々祖師方に向けて)、開山歴住諷経(この寺の歴代住職)、祠堂諷経(檀家さんや精霊に向けて)、晩課では六道を輪廻している精霊あらゆる精霊に向けて施食会と同じお経を誦みます。その他お盆やお正月には様々な行事を行います。

ではなぜこのように何かの行事をするのか、またはそのような行事があるのかということを考えると、これはすべて「拝む」という行為を行っています。拝むとは敬意、感謝を表した行為なのです。

このような行事を行うことでひとりで生きているのではない、実は私は多くの人々、さらには多くの生き物たち、自然環境や雑草、石、木など一見関係ないように見える身の周りにあるすべてのものに自分は支えられて、関係しあってここに生かされているということを忘れないで謙虚に生きようとする姿勢なのではないかと思います。なので「拝む」という行為を通して「謙虚」「感謝」ということを再認識して自覚して生きていこうというのが専門僧堂、お寺で行う朝課、晩課であり、一般的に日本で行われるお盆やお正月お彼岸などの意味であると考えます。

しかしこのような行事を行うことで形はできますが、形ができれば満足してしまうのも人間の性です。「丹霞焼木仏」「真仏坐屋裏」という禅語があります。丹霞天然という禅僧が木仏を焼いたという話と真実の仏は自分自身の中にあるという話です。(ご参考までに禅語に親しむ)偶像崇拝に一石を投じています。うわべや形に囚われてほんとうの意味で大事なものを見過ごしていませんか?と問われています。普段私達は感情に振り回されて過ごしていると言えます。たとえば、楽なことはしたいけど大変なことはしたくない、美味しいものを食べたい、たのしいことをしたい、汚いものは排除してきれいな物がいいなどなど、何気ないことにまでこのように二つに分けられた物の見方をして行動しています。ひとつの「真実」の見方としてはこのように二つに分別する以前に私達のいのちは十分に充足し、生かされているということです。感謝も謙虚さもなく自己を振り返ることもなく、良いだの悪いだのとケチをつけて過ごしているのではないでしょうか?

安泰寺での生活は全ての行為に仏が備わっていることを自覚を持って過ごしていくということをしているのだと思います。朝課、晩課をしてお檀家さんのお世話でお金を稼いでお坊さんとして満足しているお坊さんが僧侶だと思っていることを問い直していると言えます。真の意味での出家者になろうとしているのです。安泰寺では朝課、晩課のかわりに朝晩坐禅をしていますし、特別にお盆やお正月の行事を行いませんがお墓掃除は5日毎にします。何を行うにしてもその事に向き合う姿勢が重要なのだと思います。

道元禅師は作法是宗旨としています。これは今生きている時間、毎日行うひとつひとつの行為がそのまま仏の行為であることを意味していると思います。真の仏とは何か、意識せずとも謙虚であり、感謝の姿勢でいられることがひとつの真の仏の姿ではないかと私は考えています。意識せずとも謙虚であり、感謝の姿勢になるには、こころの坐り、ブレない軸のようなものが必要だと思います。釈尊の教えは奥深く自己の中を掘り起こしていくところに真の姿が現れる教えだと思います。

しかし真の仏は姿形ではないと言っても、生身の人間がいきなり真の仏を自覚しそのように生きることができるかというと、なかなか難しいことです。安泰寺の生活で危ういと感じてきているところがあります。「オレが仏だ」という傲慢さを育てているのではないだろうかということです。お経や年中行事という「拝む」行為を最低限にしてその自覚を妨げているのではないだろうかと危惧しています。形より中身が大事だと言って一般的に行われている行事を省いた結果、中身まで見えにくくなり、本末転倒になっていることに気をつけねばなりません。表面だけでなく中身が問われていますが、中身が自ずと現れてくるようでなければ、安泰寺修行の意味はなくなってしまいます。ここのところが修行の最大のポイントであり、一番難しいところです。

だから修行が必要なのです。